1. INFORMATION
どっこーーーん……
遠くの空の下から威勢のよい爆裂音が、空気と地面を揺らしながら俺の耳に届いてくる。
「平和だなぁ……」
その爆音を耳にしながら、受験に失敗して春を迎えた現実逃避中の学生のような台詞をつぶやいていた。
ぼごーーーん……
再び、先ほどとはずれた場所から炸裂音が響いてきた。
「平和ねぇ……」
ベンチの背もたれにだらしなく背を預けて座っている女の子が、俺と同じ感想を述べる。
空から降り注ぐのどかな日射しはどこの世界でも変わらないものだが、俺たちがいるまわりには不可解な光が立ちこめ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ここでは日常茶飯事のこの光景も、ここに来た当初は相当驚いたものだったが、さすがに一月以上も生活をしていれば慣れてくるものであった。
人間の状況適応能力はすげーぜ、と思わなくもない。
どぉぉぉぉぉん……
その幻想的な雰囲気を、先ほどから幾度となく破壊している轟音すらもその日常の一部である。
「お、今のはずいぶん大きかったな」
「どこかの学園生が暴走させちゃったんじゃないの?」
俺も隣に座る女の子同様、すっかりだらけきってベンチの背もたれに身を投げ出していた。
この『時間』は、俺たちのような人間には非常に手持ち無沙汰になる時間だ。
「今日は半日授業だったけど、午後から長めの魔法時間だったからね」
今日のような日は学年末試験に向け、特に進級がかかっている連中には数少ない自主学習時間になっているようだ。
かく言う俺と、そしてこの隣にいる女の子も、進級についてはかなり不味いはずなのだが、如何せんこの時間でしか出来ない課題については、並みいる教師陣ですら砲丸投げばりの大回転でサジを投げている。
それは、先ほどの『魔法時間』という言葉が示す通り、魔法。
――フォーティア魔法学園――
『魔法』などという場違いな単語が混じっていなければ、どこぞの宗教系……だとイメージが悪いからミッション系といったほうがいいな……の学園の名前にしか聞こえないだろう。
この学園はその名の通り、『魔法』を教える教育施設なのだ。
残念ながら俺の頭がおかしくなっていない。この目で何度もその魔法を目にしてきたし、的にもされたしな……あれは、一方的にボガードの爺のせいだが。
一月半ほど前、妹に親父の失踪を知らせるためにこの学園に乗り込んで来てから、魔法の使えない転校生として学園に通っている。
以降、試験や世界樹祭という学園祭を経て、魔法に関わるトラブルに巻き込まれながらも、何とか無事に過ごしている。
……まあ、無事にというほど円満だったかは、相当怪しいところだったが……
この不思議な光にあたりが包まれる魔法時間内は、魔法を使える素質がある者なら魔法を使うことができ、レベルの高い使い手ならさらなる力を得ることが出来る。
しかし、その素質ゼロの人間には全く持って無意味であるだけでなく、トラブルに巻き込まれやすい時間でもあった。
魔法が使えれば身を守れるが、それが出来ないのだから当然ではあるが。
そんなわけで、もとより魔法の使えない俺と、魔法世界の生まれながら魔法の使えない、この隣に座っている女の子・エマとこうして人がいない場所でくつろいでいたりする。
それでも少し前までは、魔法自体に興味があったこともあり、知り合いの練習を見学したりと、いろいろと足を運んでいたのだが、世界樹祭であった一件から学園長とボガードから『学園生だけで魔法を使っている場所には近づくな』と言われていた。
理由が理由なだけに、従わないわけにもいかなかった俺は、魔法時間になるとこうしてあまり人の近寄らない世界樹の観測施設わきに置かれていたベンチに座って、学園の方や世界樹を眺めていたりすることが多い。
知り合いの連中も、この時間は大抵魔法の練習をしていたりするから、自ずとただただ時間を
まあ、市街とかに出かけてもいいんだろうけど、今はまだ学生の身分、当然あまり金はない。無駄遣いなどしてしまえば、いくら寮生とはいえ途端に生活が
「天気はいいけど、こうも退屈だと……」
先ほどから背伸びをすることもやめ、お天道様から放たれた光をただただ浴びているエマのこの姿は、アマゾンのナマケモノに失礼なくらいのだらけっぷりである。
今の俺自身も人のことは、全くいえないが。
「というか、なんでこんなところにいるんだ?」
エマが普段からオーラのように発している、極めて無駄の多い、かつ傍迷惑な行動力からすれば、こんなところでダラダラとしていることはあまり考えられない。
昨年末にあった世界樹祭での一悶着のことを考えても、こんな老後のお婆さんが縁側でお茶をすすり始めそうな今のエマは極めて異常であると判断せざる得ないのだが。
「う〜ん……、最近面白いこと起きないなぁ〜と……」
「……? どういう意味だ……?」
何となく言いたいことはわかった気がするのだが、あまり認めたくない事実のため、俺は念のため確認する。
「大樹の周りって、いつも面白いことが起きていたんだけどなぁ〜」
横に跳ねている髪をくしゃくしゃといじりながらそんなことをのたまうエマ。
「……それは、俺の近くにいれば、トラブルが起きやすくて楽しい……ということだと理解してよろしいかな? エマ君」
「さすがワトソン君、極めて明快な推理だねぇ〜」
何が面白いのか、エマはケタケタと人の悪い笑みをこちらにとばしてくる。
「あー……、もう突っ込むことすら面倒だが、とりあえず人を台風か竜巻の中心みたいに評するのはやめてくれ……」
あまりにも予想を真っ向から射抜いていたエマの回答に俺は青筋を浮かべた。
確かに世界樹祭の前後までは、割と積極的に『魔法』に関わっていたため、それに絡んだトラブルに巻き込まれていたことは事実だ。
が、それでも騒動の中心人物として扱われるのは、
「でも最近はこの時間になると、大樹の周りって誰もいなくなるわよね。子犬か子ガモみたいに大樹の後ろにくっついているアリシアもいないし……」
いなくなるというより、俺が意識して避けているのだが、余計なこというと『あのこと』を話さなければならなくなるので黙っておく。
このエマのことである、下手ないいわけ・理由付けは、猪突猛進の好奇心をほどよく刺激して、いらぬ詮索を多大に招くことになるだろう。
触らぬ神に祟りなしならぬ、『触らぬエマにトラブルなし』である。
「みんな忙しいんだろ、知り合いは成績優秀なヤツばかりだから、期末の近いこの時間は修練に励んでいるだろうし」
というわけで、当たり障りのない返事を返しておく、我ながら疑問の余地を挟まない優等生な回答である。
エマは額に人差し指をたて、軽く思案をしてから、
「……アルベルトも……?」
などと、対空迎撃型ソバットのような反撃してきた。
「……俺が悪かった……、ヤツは例外だ」
唯一の例外存在をすっかり失念していた。あいつを含めたら先ほどの回答は残念ながら成立不能である。
思わぬ方向からの急所をつかれて、軽い敗北感を味わう俺に、
「まだまだ甘いね、ワトソン君」
などと得意げにのたまうエマ。
だがその『唯一の例外』の前には、『ここにいない』という但し書きが付くのだが、余計なことを言うと奥深い墓穴を掘ることになるので黙っておく。
「そういうエマも暇そうだな……」
「世界樹祭終わっちゃったし、年も変わってからここのところ、大したイベントもないしねぇ〜」
最近、魔法時間にこのベンチに座っていると、いつの間にかエマが居たりすることがあるが、俺と同じく魔法が使えないエマにとってもこの時間は暇をもて余していることは確かだろう。
「あ〜ぁ、つまんないの〜」
ばたんっと大仰な音を立て、再びベンチの背もたれにだらしなくのし掛かりながら背伸びをしているエマ。こういっては何だが年頃の女の子とは思えないがさつな態度である。
この大雑把な性格は本人も自覚はあるようなので、わざわざ言うことでも無いのだが。
会話のネタすら無くなった俺たちは、暖かい日の光を浴びて輝く世界樹と不可思議な色に染まった空の中ををゆったりと流れる雲を眺めていた。
時期からすれば冬真っ只中なのだが、四方を海に囲まれた島であるためか、割と暖かい気候をしているため、こうやって外で風に吹かれていても、コートが必要なほど寒いということはない。
海から吹く軽やかな風は、世界樹を囲む下草を柔らかくなびかせている。
全力疾走で駆け抜けるように生きる日本人から見たら信じられないような、ゆったりとした時間がここでは流れていた。
「……これでも、昔は真面目に魔法の勉強してたりしたんだけどなぁ……」
ふと、世界樹の向こうのある空を眺めたままのエマがそんなことをぼやいた。
このエマの『真面目』というのがどこまで真面目なのか、問いただしたいところであるが。
「そういえば、魔法が使えないって言ってるけど、どの段階から使えないんだ?」
魔法を使えるようになるには、いくつかの段階がある。
まずは素質そのものが全く無い場合だが、さすがにこれはどうにもならないらしい。
次に、世界樹が落とす実を、ラピスという宝石みたいな石に変えられるかどうか。
これは素質があっても、光る(変化するときに発光するのだが)ことすら無い場合もあれば、変化するどころか砕け散ることもある。
……まあ、砕け散るのは、相当例外らしいが……
基本的にラピスを持っていて、魔法が全く使えないというヤツは今のところ見たことがない。
この段階なら、訓練などで魔法が使えるようになる可能性が出てくると思われるのだが……
「見てわかんない? 無いでしょう?」
と、俺の目の前に立つと、両手を広げて、その場でクルリと体を一回転させるエマ。
「えー……つまり……」
「そ、ラピス。わたし持って無いのよ」
これまであまり気にしていなかったが、そういえばエマがアクセサリを身につけているのを見たことがない。
この学園の女子学生は、宝石状になったラピスをアクセサリに組み込んで着飾っているのだ。
自他共に認めるガサツさを誇っているエマとはいえど、女の子であることについては何ら変わりはない。つまり、エマはアクセサリを身につけていないのだから、そもそもラピスを持っていなかったということになる。
「……といってもね、実が全く光らなかったら、そもそもこの学園に入学すら出来ないわよ。だから光りはしたのよ、光りは……」
うつむき加減になって、小さくつぶやくエマ。
「……光りはした……?」
まさか砕け散ったということはあるまい、ボガードの爺は砕け散ったのはこれまで見たことが無いと言っていたのだから。
「光りが収まった後、わたしの手にあったのは、元の世界樹の実そのものだったのよ……」
つまり、光りはするものの、ラピスには成らなかったということである。
確かに、これなら魔法の素質はゼロということは無いのだろう。魔法が使えないエマがこの学園に居ることが出来る理由も分かる。
「だから、入学してからしばらくは、他の人の魔法訓練を見たり、世界樹の実を光らせてラピス化しようとしたり……」
エマも初めの頃は、俺と似たようなことをしていたのだろうが、結局うまくいかなかったわけだ。
砕け散るよりはマシとはいえ、光ってもラピスではなく元の実のままだったというのも、下手に期待させてくれる分、ショックが大きいだろうな……
「必死に……必死に、魔法が使えるようになるために頑張ってきたのに……」
顔を俯かせたまま俺の前に立つ、エマの両肩が震えていた。
「……エマ……」
俺がどう声をかけようか、迷っていると、
「お、お陰で、アルベルトや大樹と同列に並べられて三馬鹿トリオなんていわれるし……」
「へっ?」
予想に反して、顔を上げたエマの両目はかち割り氷のよろしく鋭角にとんがっていた。
一瞬泣いているのでは? と思った俺が浅はかだった。
エマは激しい怒りによって肩を振るわせていたのである。
「ま、魔法の授業は出られない、魔法が出来ないから成績が酷い、ラピスアクセサリを買いに行くことも出来ない、セーラにはいびられる……、な、何度……何度魔法が使えるヤツらを呪ったか……!!」
恨み辛みに呪いの言葉を駄菓子屋の商品棚のように雑然と並び立てるエマ。
ちなみに魔法が出来ないと、魔法の授業に出られないということは全くない。エマの場合は単なるさぼりである。
セーラにいびられているというのも、さぼりをとがめられているだけ。
かなり大げさなことを言っているが、自業自得なものもかなり含まれてる気がするぞ。
そもそも、魔法が出来ない云々は、全体の成績には関係ない。
確かに、ここでは魔法の出来る出来ないの重要性は高いことは間違いないが、学園の成績評価としてはその一部でしかない。
エマの場合、英語や数学といった通常の教科すらも壊滅的であるということがそもそも問題なのである。
俺も、その三馬鹿を構成する一人である、人のことはこれっぽちもいえたものではないが。
魔法はラピスが砕け散るくらいなので全く使えない、エマたちと比べれれば若干マシという程度の通常学科の成績は平泳ぎで高速巡航、唯一体力だけが取り柄だ。
ちなみに、アルベルトは魔法が使えるものの、いろいろと方向性が間違っているのか、まともに使えた試しがないし、学業成績・身体能力は破滅的である。
エマは運動神経は良いのだが、魔法と学科の成績は前述の通り、尺取り虫が光の速さで這いずり回っているわけだ。
どれもこれも、
こと成績に関しては、エアロトレインもびっくりな超低空飛行を続けている三人である。
……自分で思ってボロ屋に隙間風が吹き荒れそうなくらい悲しくなったような気がするが、深く考えないようにしよう……
「……なんで……なんで、わたしがこんな思いしなければならないのよっ!!」
遂に大絶叫するエマ。
その怒りに釣りあがった口元からは、今にもフシュー、フシューなどと西部の荒野を駆け抜けるバッファローのような息巻きをはじめそうである。
「エ、エマ、おちつけ!」
俺の言葉が耳にすら届かないのか、エマの顔はなまはげすら裸足で逃げ出しそうな般若面の形相になっていた。
「それもこれも……」
エマは、急旋回で後ろを振り向くと、その眼前に立つものを見据え、
「アレのせいだぁぁぁぁぁ!!」
呆然としていた俺の前から、猛然と地面を抉りそうなダッシュで駆け抜けて行く。
って、その先は……!?
――世界樹――、すべての魔法の源、ラピスの元となる実をつけ、天候のように魔力を放出し魔法時間を作り出す……
エマは、その世界樹の根元に駆け寄ると、切らした息を整えることすらせず……
「どぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ゲシっ! ゲシっ!
全力で激しく蹴り出した、あろう事か世界樹の幹を。
あ、あいつなんてことを……!?
確かに、世界樹の実が光ってもラピス化せず、エマが魔法も使えない原因に世界樹が絡んでいることは疑いは無いが、殆ど……というか完全に八つ当たりだろう。
このどでかい世界樹が、エマが蹴り飛ばしたくらいでどうにかなるようなものではないとは思うが、一応この島では神聖な樹であるのは間違いないし、なにより守護者であるセシルが何かしてこないとも限らない。
「こいつのせいで! こいつのせいでぇぇぇぇ!!」
「こ、こら! やめろっ!」
追いかけてきた俺は、エマを後ろから抱え上げて、親の敵のごとく世界樹を蹴り飛ばすエマを幹から引き剥がそうとした。
「放せぇぇぇっ!」
ジタバタと暴れるエマを何とか押さえつけるが、頭が熱湯に放り込まれたタコのように
「おまえ、自分が何やっているのか分かってるのか!?」
「見て分かんないの!? 決まってるでしょう! 世界樹に蹴り入れてるのよっ!!」
「た、頼むから素で返さないでくれっ!」
恐ろしいことに素で返して来やがった。これがエマのマジで怖いところかもしれない。
「大樹! 邪魔だてするなら、あんたも容赦しないわよっ!」
「なっ!?」
両肩を抱え上げていたにもかかわらず、俺は一瞬にして体を入れ替えられ、エマに背後を取られた。
そして……
「食らえぇぇぇ!! 『エマファイナル』!!」
ぐぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃーーー!!
「ごあっはぁ!?」
体中が不可解な
気を失わないのが不思議なくらいの痛みが全身からくまなく襲ってきて、いったいどこが攻撃されているのか全く分からない。
「エ、エマ……やめ……」
「邪魔者には容赦しないぃぃぃぃ!!」
エマのけたたましい叫びとともに、さらなる激痛が俺に襲いかかる。情けも容赦も一欠片もない、あまりの痛みに思考が停止しそうだ。
今の俺が理解出来るのは、想像も出来ない関節技を極められているということと、このままでは命に関わるということ……
や、やばい……早く抜け出さないと……!
しかし、あたりには誰もいない、以前はセーラが止めてくれたが、こんな人気のない場所では叫びを上げても助けが来そうにない。
こんなところで、人のいない場所にいることが仇になったかっ。
「死ねぇぇぇぇぇぇ!!」
「うごごぉぉぉ……」
ま、まず……い……、意識が薄れてきた……もはや痛みを感じることもなく、ただ意識が消えかけようとしていた。
脳裏に『死』という極太毛筆体がでかでかと白抜きで浮かび上がって見えるのを感じる。残念ながら俺は格闘家でも剣客でもないから必殺技に目覚めたりもしない。
こつんっ……
「ん?」
そのとき、軽い音が聞こえたかと思うと、急にエマの力が抜け、俺を解放する。
消えかけていた意識を総動員して、俺は地面に膝をつく。もう少し遅かったら大の字で地面へとダイブしていたぞ……
いつもながら魔法世界の技は理解できない……本当は魔法を使っているんじゃないのか? エマは……
「これ、なんだろう?」
「ど、どうかしたのか……」
荒い息を懸命に鎮まらせながら、俺は頭の上に手を置いて首を傾げているエマを見上げた。
「何かが頭の上に落ちてきたみたい」
さっきの何かが跳ねたような音は、その何かがエマの頭に落ちてきた音だったようである。
エマは自分の髪の中から、落ちてきた物を探り当てると、手のひらにのせてまじまじと見つめている。
「これって……」
「世界樹の実……よね……?」
エマが差し出した手のひらの上には、俺の手の中で幾度となく砕け散り、妹やその友人などからの哀れみの視線を浴び、ボガードの爺から爆笑を浴びせかけられるという、悲しく苦い思い出が詰まった世界樹の実があった。
そして、手にしているエマにとっては、期待させるだけ期待させてラピスに成らないという、鬼か悪魔のような実である。
ほんの1cmも無いくらいの小さな実であるが、これによって少なくとも俺たちは振り回されているわけだが……
「なんで、こんなところに落ちてきたんだ?」
この世界樹の実が降り注ぐのは世界樹祭の時だけ、それを祝い、収穫するのがそもそも世界樹祭の本来の目的であるわけだ。
「……枝にでも引っかかっていて、落ちてこなかったんじゃないの?」
エマが蹴り飛ばした衝撃で落ちてきたんじゃないのか? とも思ったが、巨大ロボットが放った飛び蹴りならいざ知らず、このエマが多少暴れて蹴りを入れたくらいではこの巨大な幹はびくともしない。
そもそも、世界樹祭が終わってからしばらく経っている。風に吹かれたにしろ、蹴りの衝撃で落ちてきたにしろ、いまさら枝に引っかかっていた実が落ちてくるのは不自然な気がする。
「それにしても……世界樹って本当に空気読めないわね……」
エマの両目が先ほどのように鋭く細められた。
「空気……?」
エマはその実を握りつぶしかねない(一応普通の人間の握力程度では壊れないらしいが)ほどの力で拳を作ると、またも世界樹に向き直り、
「怒りの対象をわたしに落としてくるなんて、本当に……本当にいい度胸してるわ!」
再び足を振り上げて蹴りを幹に叩き込もうとする。
「うわ、またか!?」
制裁が怖いが、放っておくわけにいかないので俺はエマを止めようとしたのだが……
フィィィィィン……
エマの握りしめた拳から眩いばかりの光があふれる。
世界樹の実がラピス化するときに放たれる光だ。
「ちっ、また光るだけなんでしょうけどね」
苦々しく舌打ちするエマ。相当頭に来ているんだろうな……
ほんの数秒、その光はエマと俺を包んでいた。エマの話だとラピスには成らず、実のままであるらしいとのことだが。
「……ん?」
光が収まった後、エマは怪訝な顔をすると、力一杯握りしめていた拳を緩めて、俺の目の前に手のひらを広げて見せた。
「…………!?」
そして、声を失う。
差し出されたものを見た瞬間、俺もまるで時が止められたかのように硬直して目を見張っていた。
白みが掛かった紫色――バイオレット――の輝きを放つ半透明の結晶、成るはずが無いものがそこにあった。
「ラ、ラピス……ラピスに成ったんだ……」
エマもあまりの突然の出来事に言葉がうまく紡げていないらしい。
間違いない……、俺はすでに諦めていたが、魔法世界の住人であるエマが求めてやまなかった、大抵の人間が魔法を使うために必要となる石、ラピスがその手で輝いていた。
ラピスを手に入れるということは、魔法が使えるようになる可能性が高まったことを示す。
もちろん、単にラピスを手に入れたというだけで、早々魔法が手軽に使えるようになるとは限らない。よっぽど特異な才能の持ち主でもない限り、修練を積んでもしばらくは魔法時間内でなければまともに使うことすらかなわないだろう。
だが、一番高い壁を越えたことは間違いない、特にエマにとっては。
エマは手にしたラピスを日の光にかざし、その煌めきをうっとりと眺めていた。
「これが……わたしのラピス……」
感無量とはこのことだろう、まさに夢にまで見た輝きが自分の手の中にあるのだから。
「やったな、エマ!」
「あ、ありがとう大樹っ!」
ただ気になることがあるとすれば、何故唐突にラピス化が成功したのだろうか?
「きっと無欲と無我の境地によって、世界樹の実がわたしの願いを聞き届けてくれたのよ!」
先ほどのエマの行動は、無欲とか無我とかから無縁というか、月と太陽ほどに遠いと思うのだが……
まあ、本人がこれだけ喜んでいのだから、水を差すのも可哀想な気がするので黙っておくに越したことはない。
「ふふふふふふふふ……これで……これでっ! 序列が! 序列が変わるわ!」
大きな笑みを浮かべたエマは、ラピスを握りしめた拳を突き上げると、学園の方に向けて大地すら揺るがしそうな咆哮を上げる。
「序列って……おいおい……」
おそらく、『序列』というのは我らが三馬鹿内での順位のことだと思う。
現在のところ、
アルベルト 魔法△ 勉学× 運動×
エマ 魔法× 勉学× 運動◎
俺 魔法× 勉学× 運動◎
という勢力図であり、ここにエマが魔法を使えるようになると、その優劣にかかわらず、三馬鹿中のトップは揺るぎがないものになるだろう。
……まあ、比較するのが俺たち内だけという時点で、非常に低レベルな争いであることは間違いない。
ドングリと団栗比べても高がしれているのが分かるだけ、成績優秀のアリシアやセーラを比較対象にしろとは言わないが、せめてもう少し別のクラスメイト辺りと比べたいところだ。
リンゴーン…… リンゴーン……
聞き慣れた鐘の音が両耳に届くと同時に、辺りを覆っていた不可思議な魔法の光が次第に輝きを失い、風景は元の色彩を徐々に取り戻してゆく。
魔法時間の終わりを告げる鐘だ。
「あ、おわっちゃった……」
心底残念そうにつぶやくエマ。手に入れたばかりのラピスを用いて、魔法を使おうとしたことは容易に想像出来るが、ハッキリ言って無謀なこときわまりない。
わざわざ核弾頭抱えて地雷原を高笑いしながら通過するような真似に付き合わされること請け合いだ。
命拾いをしたのは確実である、特に俺。
ともあれ、ミレーヌ先生でも学園長でも、この際ボガードでもかまわない。とにかく誰でもいいから教師が居るところでやってほしい。
魔力の暴走騒ぎに巻き込まれるのは出来るだけ避けたいところである。喜んで巻き込まれるヤツは居ないだろうが。
「仕方がないわね、明日の魔法時間に期待するしかないか……」
「明日のお楽しみ……ということで良いじゃないか。別に魔法時間は逃げやしないぞ」
さすがに、俺は一安心だよ……とはいえない……口にした途端、あの不可解な関節技が寸分違わず襲いかかってくるだろう。
「そうね、とりあえず……」
エマは世界樹に向き直ると、
「世界樹! ありがとうぉぉぉ!! 今まで恨んでごめんね!」
巨木に向かって大声で礼を述べ、頭を深く、深く下げるエマであった。が、実に現金なヤツである。
気持ちは分からないでも無いけど。
「さあぁって、早速明日に向けて魔法の予習よ!」
「!!」
ぐわっ! エマとは思えない台詞がその口を突いて出てきたぞ!
これがラピスの力なのか……!? などと不届き千万なことを思ってしまうほどの、衝撃の台詞であった。今の『予習』という言葉は。
「じゃ大樹、また明日ね!」
俺に一言別れを告げると、手に入れたラピスをその手に握りしめ、エマは目にもとまらない速さで学園の方に駆け抜けてゆく。
その姿を呆然と見送った俺は、世界樹の袂に一人取り残された。
「……まあ、いいか。俺も帰ろう……」
いつの間にか日が少し傾き、世界樹を染めるその光にも茜色が混じりはじめていた……