わたしはわたしだから。

  まわりがどう見て、どう思っても。

  わたしは、わたし以外の何者でもない。

   わたしはわたしらしく、わたしが好きなように、一生懸命生きているのだから。



夢の残照 外伝 風の辿る街


 ――夏の風が霞む……――

 季節は焼けるような時節を終え、涼やかな風をこの街へともたらそうとしていた。
 とはいえ、まだ衣替えの時期ではない。道行く誰彼も夏の涼しげな衣服を身につけている。
 わたしが着ている制服もまだ夏服、秋から春の終わりまでYシャツの上に着ている校章をあしらったブレザーは無く、白いYシャツも半袖、スカートの生地も薄手だ。

 高校生になって初めての長い夏休みが終わり、二学期が始まってすぐの中間試験も終わった。
 試験は、まあまあ出来た方だと思う。
 晶の方もとりあえず無難な線で収まったと言っていたわね。

 放課後、部室でやっていた観測資料の整理を終えて、今日は早めに切り上げた。
 帰りに商店街の本屋に寄るつもりだったからだ。

「ちょっと、そこの君〜」
 風船のように軽い口調のセリフが、商店街の歩道を歩いていたわたしの背を叩く。
(……またか……)
 その声を聞いただけでウンザリする。
 駅前や商店街の人の多いところを歩くと5分も経たないうちに、このような声がわたしへと向けられる。
 それがいつの頃から始まったのかは忘れたけど、高校生になってからは特に顕著になったと思う。
「……なんですか?」
 渋々といった感じで、わたしはその声の方に振り向いた。
 顔に掛けた眼鏡を通して目に映ったのは、他校の制服を着た、いかにも軽薄そうな薄笑いを浮かべた男子生徒の姿だった。
(この人、さっきわたしとすれ違った気がするけど……)
「そこの茶店でお茶でも、どぉ〜」
(やっぱり、またナンパか……)
 内心で深い深いため息をつくわたし。
「いえ、結構です」
 殆ど間を置かず返事を返した。
「そんなこと言わずにさぁ〜 当然おごるから……」
 この程度では引き下がらないナンパ男。
 鬱陶しいことこの上ない。
(しょうがない、いつもの手を使いますか……)
「では、M42とは一体なんですか?」
「……はぁ?」
 唐突な質問に、間抜けな声を上げる男子生徒。
「答えられないならいいです。では……」
 わたしは腰近くまで伸ばしている髪をひるがえ し、間抜けな顔をしている男をその場に放置してそそくさと歩き去った。
「あっ、ちょっと!」
 我に返った男子生徒がわたしを追いかけようとしたけど、既に近くの本屋に入り込んでいて、その軽薄そうな男子生徒はわたしの姿を見失ってしまった。

 ――これは……半年ほど前……わたしがまだ高校一年生だったころの話……――


「ふぅ……」
 わたしは店の中に入ると、ため息をこぼ した。
 入り口を入ってすぐにあるカウンターの中で新聞を広げていた店主のおじさんが、入ってきて早々ため息をついたわたしを怪訝な顔で見ていた。
「どうした? 美樹ちゃん。店に入ってくるなりため息なんて……景気が悪いよ」
 冗談めかして、苦笑いする店長さん。
「すいません……、ちょっとまたつきまとわれたので……」
「……ふむ……美樹ちゃんも大変だねぇ……」
 肩をすくめて、店長さんは広げていた新聞をカウンターの上に置いた。
 この本屋さんは三洋堂といって、商店街の中程に位置する比較的古い本屋さんだ。
 外装もその古さを引き立たせるかのように木造張りで、商店街の店舗の中でも異質な感じがする。
 とはいえ、その外装に商店街の他の店から文句を付けられたことは無いらしい。
 いかにもいにしえ の魔法書でも眠っていそうな外装だけど、中はれっきとした普通の本屋さんだ。
 しかし、この見てくれのためか、若い人たちの利用は少なく、もっぱら年配や精々サラリーマン風の人たちくらいしか来客がないとのこと。
 まあ、店長さんはそのあたりを気にしていないし、むしろ代々受け継いできたこの店舗を守ってこそ意義がある……みたいな感じだしね。
「晶が居れば追い返してくれるんですけどね……」
 晶、水月みつき あきら 、中学時代からの親友なんだけど、男勝りというか勝ち気な女の子で、わたしにまとわりつくナンパ男を『実力行使』で追い払ってくれる頼もしい存在……なんだけど……
 からかったりすると、その鉄拳が親友であるはずのわたしにも、容赦なく降り注ぐんだけどね……
 今日は、晶はすぐに家に帰るというので、わたし一人で商店街に来ることになってしまったんだけど、やっぱり止めておけば良かったと思う。
「……まあ、しょうがない……それでも読んで元気だして」
 露骨に気落ちしているわたしを見かねた店長さんが、カウンターの向かいに張り出したポスターを指さした。
 そこにはアニメ調のイラストが描かれたライトファンタジー小説の宣伝ポスターがあった。
 その中にわたしがいつも読んでいる本が含まれていることに気づく。
「あ、『銀の髪』もう続刊でていたんだ……」
 ――銀の髪――
 この手のライトファンタジー系のネタは出し尽くされたと言われて久しいこのご時世に、あえてオーソドックスな剣と魔法の西洋ファンタジーを描いた物語。
 主人公である武器鍛冶屋・ウィル=ザードを中心に、ヒロインこと召喚師・エイレーネ=アイリーン、ウィルをライバル視していた精霊魔導師・ユークリッド=クライド、そしてユークリッドの幼なじみアイリス、元神官である義賊・レガート=クラウド、王立娘子軍最強とうたわれたセリスなどの仲間たちが旅をするお話である。
 主人公のいわば復讐劇を描いた第一部、古に封じられた破壊をもたらす者の復活とそれとの戦いとを描いた第二部、そして人の枠に収まらなくなった神々の戦いを描いた第三部となっている。
 現時点で第三部が連載中だけど、そろそろ物語も佳境に入ってきた感じがしている。
「この作者さん、旅しながら執筆を続けているって噂だけど、本当なんだかね……」
 カウンターについた腕にあごを乗せて言う店長さん。
「どうも作家というと、どこぞのホテルに監禁されて、24時間担当編集者の見張り付きで書かされるというイメージがあるんだよなぁ……」
 と、頭を掻きながら、世に存在する作家さんのほぼ大半を敵に回すような失敬な台詞をつぶやいていた。
 まあ、本当にそういう人もいるでしょうから、完全に否定は出来ないだろうけど……
 それにしても、『銀の髪』の作者が旅をしながら執筆しているなんて初耳だった。
 この作品、巻数が多い割にちゃんとスケジュール通りに発売されていることを考えても、旅しながらその片手間に書いているとは思えない。
「それじゃ、わたしは2階のコーナーに行きます」
 わたしはカウンターから離れて、上の階に続く階段へと向かう。
「ああ、そのまま本を持って5階に行っていていいから、しばらく時間を潰すと良いよ」
「はい、ありがとうございます」
 礼を述べてわたしは細く急な階段を二階へと上がった。
 ライトファンタジー小説などを含めた文庫本のコーナーはこの建物の2階にある。
 ちなみに1階は女性または男性向け情報雑誌など、3階はコンピュータ関連書籍、4階はビジネス書、5階はサイエンスやホビー関連を扱っている。
 わたしは2階に上がると、階段近くに設置された新刊コーナーで『銀の髪』の最新刊を手に取った。
 他にも幾つか見知った作家さんの本も出ていたけど、これは帰りに持って行けばいい。
 『銀の髪』の文庫を手にしたまま、わたしは再び階段を上がり、最上階である5階を目指した。
 古びた木張りの階段を踏みしめても、ギシギシというようなきし み音を響かせて不安にさせるようなことはない。
 これは単に木が貼ってあるだけで、中身はれっきとした鉄筋コンクリートな為だ。
 見た目だけなので、演出としてはやや不足気味だが、安全は演出には変えられないとは店長さんの弁。
 ゆっくりと五階に上がり、わたしは窓際……つまり商店街に面した方に向かう。
 この本屋さんは南向きに面していて、壁に備え付けられた出窓から商店街を望むことが出来る。
 出窓のそばにはテーブルが設けられ、そこで本を読んでいても良いことになっている。
 普段からお客が少ないための、知る人ぞ知るこの本屋さんならではのサービスであった。
 駅のロータリーから伸びる道路にこの商店街は立ち並んでいる。
 駅東側の地域は基本的に高いビルは少ないため、5階からでも十分商店街を見渡すことが出来る。
 本棚の合間を抜け、窓際のテーブルに近づいたわたしは、普段は蛍光灯の明かりしかないはずのこの場に、日の光が差し込んでいることに気がついた。
 他にお客さんがいるのかな……?
 少なくともわたしが今まで来ていた時には、他の客なんて見た覚えがなかった。
 この本屋さんに来る人はいても、ここを使用する人がそれだけ少ない、ということなんだけど……
 その出窓から入り込んでいる屋外の光によって、本棚の谷間の床が輝いている。
 普段はカーテンが敷かれている出窓は、いっぱいに開け放たれていた。
 そこから昼間よりも幾分和らいだ風が、屋内へと吹き込み、窓に備え付けられたカーテンを揺らしている。
 わたしは、そこから外を臨む女性がいることに気がついた。
 出窓に腰を据え、肩下で結わえた長い黒髪が窓から吹き込んだ風に乗り、その人の背を軽く叩いていた。
 裾の長い真っ白なワンピースを身につけた女性が、色白の細い腕から伸びる手で風に踊る髪を押さえながら、柔らかい表情をして町並みを眺めている。
 本棚の谷間から現れたわたしに気がついたのか、その人はこちらを振り向き、
「こんにちは」
 とにっこり微笑んで挨拶をしてきた。
「こ、こんにちは……」
 思わずどもって挨拶を返してしまった。
 近くで見たその女性は、病的というほどではないけどそれでも不思議なくらい色白な肌、そして何よりも赤みのかかった瞳が印象的だった。
 見た目の年齢はわたしと2・3年上といったところだと思う。だけどその柔和な表情のためか、相当大人びた印象を受ける。
 わたしは、テーブルに鞄と先ほど手に取った『銀の髪』の文庫本を置き、テーブルから椅子を引き出した。
 大家族向けのダイニングテーブルくらいの面積を持っているそのテーブルの片隅には、いかにも実用本位といった感じの無骨なデザインのノートパソコンと、かなり分厚い辞典が開いたままで置かれていた。
 辞典はともかく、ノートパソコンはその女性の持ち物だと思うけど、白いワンピースの片腕に無骨なノートパソコンは似合わないと思った。
「勉強ですか?」
 その女性は出窓に座ったまま、こちらに話しかけてきた。
「いえ、買った本をここで読もうかと……」
 正確にはまだ買ってはいないけどね。
「そうですか……どんな本を読んでいらっしゃるんですか?」
 その女性は、腰をつけていた出窓から降りると、テーブルのそばまでやって来た。
「こ、これです……」
 わたしは本を差し出すと、女性は口に手を当てて、
「まあ……」
 と軽く驚いた顔を見せた。
「……? 知っているんですか?」
「ええ、ちょっと知ってますよ」
 何となく懐かしそうな顔で『銀の髪』の表紙を見つめる女性。
「あっ……邪魔しては悪いですね」
 軽く苦笑すると、その女性はノートパソコンの前に座り、ぱたぱたと軽やかな音を立ててキーを叩きはじめた。
「うるさかったら、言ってくださいね」
 画面から視線を外し、わたしのほうに向かって言う女性。
 こんなところでノートパソコンを使って何かを打ち込んでいるところを見ると、この人は大学生で、ここで論文でも書いているのだろうか?
 この本屋さんには古い書物を扱っているコーナーがあって、今では絶版になってしまったものもいくつか存在するらしい。
 希にこのような研究生たちが立ち寄ることもあると、店長さんから聞いた覚えがあった。
 わたしも椅子に座ると、テーブルに腕をつきながら『銀の髪』を開いて読み始めた。

  ――カーテンが風に揺れる音と、女性が叩くキーの音がしばらくその場を支配していた……


  ――15分ほど経った……

 ……集中できない……
 別に女性の打鍵だけん の音がうるさいわけでも、窓の外から響きだした蝉の鳴き声のせいでもなく、わたし自身の問題だった。
 この頃、わたしには悩みがあった。
 何か行動を起こせば解決するような問題でも無かったので、今のわたしには悩むことしか出来なかったのだ。
 その悩みは、一応親友である晶にも相談できるような内容ではなかった。悩みの内容云々の前に、話した途端殴られそうでそちらの方がよっぽど怖い。
 せっかくの『銀の髪』の新刊には申し訳ないけど、物語の内容がこれっぽっちも頭の中に思い描けなかった。
 はぁ……
 目の前の本にため息がかかる。
「……何か、悩んでいらっしゃるんですか?」
 ため息が聞こえていたのだろう、ノートパソコンから顔を上げた女性がこちらを見ていた。
「……ええ……ちょっと……」
 わたしは思わず正直に答えていた。
 この人の前では嘘をついても見抜かれてしまうような感じがしたということもあったが、わたし自身が誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「そうですか……」
 女性は静かにうなずくと、パソコンのキーボードを数回叩き、そのままパソコンを畳んでしまった。
 傍らに置いてあった分厚い辞典も閉じて、パソコンの隣に置くと、女性はわたしの前に座って来た。
「素性の知れないわたしで良ければ、話を聞くくらいは出来ますけど……どうですか?」
 柔らかい言葉遣いでわたしに問う女性。
 わたしが正直に答えたことで、聞いて欲しいのだろうと思ったのだろう。
 とはいえ、すぐに口に出せるようなことでも無かったので、わたしは本をテーブルに置いてじっとしていると、女性の方から話しだした。
「制服を着ているところから見れば、あなたはまだ高校生ですよね? 勉強や部活動、友人関係……そして、恋愛……いろんなことで悩む時期だと思いますよ」
 女性は、テーブルに視点を下ろしているわたしをじっと見つめて言葉をつづる。
「あなたもそんな時期を過ごしたんですよね……?」
 わたしの言葉に女性は静かに首を横に振った。
「……残念ながら、わたしはいろいろと事情があって……普通の高校生のような時期を過ごせなかったんですよ……」
 柔らかい表情に陰りを浮かべる女性。
「……ごめんなさい……」
 聞いてはいけなかった気がして思わず謝ってしまうわたし。
「いえいえ、ただそれが『わたしの普通』だっただけです。……他の誰にも代えられない『わたし』であるための時……」
 女性は慈しむような声でつぶやいた。
「わたしであるための時……」
 わたしは女性の言葉を反芻はんすう した。
「はい」
 頷く女性の顔には、迷いも後悔も感じることが無い。本当に納得してその時を送ったのだと思う。
 この人になら……話してもいいのかもしれない……わたしは理屈ではなく直感でそう思った。
 解決するすべ が見つかるか分からないけど、一人で悩んでいるより遥かにいいのかもしれない。
 この手の相談は見知った人よりも、見知らずの人の方が気楽に話せるだろうと思うしね。
「あ、あの……」
 わたしが悩みを打ち明けようとした途端、その女性はわたしの言葉を遮るように言った。
「この街を案内してもらえませんか?」
 その女性は、開け放れたままになっている出窓の外に目を向けていた。
「え……?」
 突然の申し出に、わたしは思わず固まってしまった。
 案内……?
「実はこの街には初めて来たんですよ。たまたま立ち寄ったこの本屋さんに、このようなスペースが用意されていたので、ちょっと仕事をしていましたけどね」
 女性はテーブルの端に寄せていたノートパソコンを引き寄せて、その筐体を軽く突っついた。
「そうなんですか……」
「はい。ですので、まだここ以外に行ったことが無いんです。不躾なお願いで申し訳ないですけど……」
 女性が何を思ってわたしに案内を頼んできたのかよく分からないけど、今日は三洋堂以外用事も無いし、まだ日も高いから断る理由も無い。
「いいですよ。わたしでよければ」
「ありがとうございます」
 わたしの返事に喜んだ声で礼を言う女性。
「それじゃ、えっと……」
 わたしはこの女性の名前をまだ聞いていなかった。
「そういえば、まだお互い名前を名乗っていませんでしたね」
 にっこりと微笑むと、その女性が名を名乗った。
「わたしの名前は、威沙いずな ……時堂ときどう 威沙と申します」
 耳慣れない名前に、わたしはぱっと漢字を思い浮かべられなかった。
「いずなって、どう書くんですか?」
「威力の『威』、さんずいのすな、と書きます」
 すぐに言葉が出てくるところから、いつも同じように聞かれているのかもしれない。
「あなたのお名前はなんと言うのですか?」
「わたしの名前は、星野美樹といいます……」


  ――涼やかな風が夕闇を運ぶ――

 わたしとその女性は、商店街を駅の方向に向かって歩いていた。
 この商店街は、駅前のロータリーから延びる駅前の通りに沿って存在している。
 今歩いている歩道は、石畳のようにブロックで敷き詰められ、商店街の店先を彩っている。
 傾いた日の光が、かす かにブロックを淡い橙色に染めていた。
「それじゃ、威沙さんは、今は旅の途中なんですか?」
「はい」
 この女性こと時堂威沙さんは、旅の途中でこの街に立ち寄ったらしい。
 なんでも、人を探しているらしいとのことだった。
 あれから威沙さんが出立の準備をしている間に、わたしは三洋堂の一階に下り、『銀の髪』の新刊を購入して外に出ていた。
 三洋堂からここまで歩く間に、威沙さんがなぜここにいるかについて軽く話を聞いていた。
「正確に言うと、人を探している人を探している……ですけどね……」
「探している人を探している……?」
 禅問答のような言葉を呟く威沙さん。
「簡単に言えば、わたしが探している人は、人を探して旅をしているんです。でも、その人が見つけようとしていた人をわたしの方が先に見つけてしまったので、それを伝えるためにその人を探しているんですよ」
「探すって……何か連絡方法は無いんですか? 電話とかメールとか……」
 完全に行方を眩ましているならいざ知らず、今時ならいくらでも連絡手段がありそうな気がするんだけど。
「電話もメールも届くところにいるはずなんですが、それだけだとその人がすぐに戻ってこない可能性が高いので、内密にその人を捜し出して連れて帰ろうと、ということになっているんですよ」
 威沙さんは困った顔をして苦笑する。
「追いかけたら逃げそうな人なんですね」
 わたしは率直な意見を述べた。
「その通りですね。あの人の天の邪鬼さにはいつも振り回されてましたから……」
 遠くを見るように目を細める威沙さん。
 どこの学校も終わり、仕事帰りの人たちもちらほらと見受けられるような時間のため、駅から流れ出てくる人波が、流れに逆らうわたしたちの横をすり抜けてゆく。
 ふと流れに目を向けると、わたしの学校の部活動を終えた生徒たちが、談笑しながら帰路を辿っている。
 いつもなら、晶とあの生徒たちのように帰り道を歩いているわたしがここにいるのだろう。
  ちりん、ちりん……
 通り過ぎた店舗の軒先に飾られた風鈴が、風を受けて涼やかな音色を響かせていた。

 10分ほど歩いて、わたしと威沙さんは駅前のロータリーまで来ていた。
 このロータリーにはバスターミナルがあり、時間が時間なので、駅から出てきた人を乗せるバス、駅に向かう人を乗せたバスが頻繁に商店街へ続く道から出入りしているのが見える。
 わたしは徒歩で学校まで通っているので、あまりバスは利用しないし、そもそもこのロータリーからは学校の方へ行くバスは出ていない。
 学校はこの駅を挟んだ西側にあるので、学校の方へ向かうバスは駅の西口の停留所に止まっている。
 ターミナルのあるロータリーの中州とその周囲を行き来するためには、階段を上がって駅の東西を行き来する自由通路につながる歩道橋を渡ることになる。
「とりあえず、駅まで来ましたけど、威沙さんはどんな場所にいきたいですか?」
 威沙さんはちょっと考え込むような仕草をしてから、
「美樹さんのお薦めの場所ってありませんか?」
 とわたしの方に振り向いて言う。
 ちなみに威沙さんとわたしだと身長はわたしの方が若干高いので、すこし見上げるような感じになっている。
「そうですね……この街って特に観光に適した史跡とか、遊技場とか無いんですよね……」
 この街……『霧ヶ崎きりがさき 』は、三方を山に囲まれた台地の上にある。
 ここは昔からある街ではなく、鉄道が通るようになってからもさほど発展はしていなかったという。
 それが街の東側に出来た幹線道路が開通してから、ようやく街としての機能が動き出したと言っても過言ではないらしい。
 この駅の路線が高架化されたのも、随分最近の話なのである。
 その幹線道路まで行けば、その沿道には大規模な郊外店がいくつかあるけど、徒歩で行くにはちょっと遠い。
「とりあえず、西口に向かってみましょうか? 向こうなら駅ビルもありますし……」
「はい」
 わたしの提案にうなずく威沙さん。
「それじゃ、そこの階段から上の自由通路にあがりましょうか」
 わたしは手近にあった、自由通路に通じる階段を指さしていた。

 比較的出来たばかりで広い自由通路だけど、この時間では帰宅途中のサラリーマンと学生で溢れかえっていた。
 この自由通路の両脇には改札があって、中二階にあるホームへと続いている。
 わたしと威沙さんは、この通路を人混みに紛れながら西口方面を目指していた。
「人が多いですね……」
 わたしの後ろを付いてくる威沙さんが、率直な感想を呟いた。
「帰宅時間の真っ直中ですからね……」
 ちなみにこの駅の周辺は、駅前や商店街を除けば宅地が広がっているため、この時間はホームへ降りる人より改札から出てくる人の方が多い。
 霧ヶ崎から電車を使えば数駅で地方中心都市の圏内に入るため、そこへの通勤・通学者がかなり多い。
 日が傾き始めてきたので、外の気温も多少下がって来た感じがするけど、この自由通路は人の熱気で湿度が割合高いらしく、快適とは言い難い。
 ……むしろ、人に酔って気分が悪くなりそうな感じだけど……
「普段は美樹さんもここを通っているんですか?」
 人の流れにワンピースの長いスカートを翻しながら威沙さんが尋ねてきた。
 気分が悪くなりそうなわたしとは対照的に、威沙さんは物珍しそうに行き過ぎる人波に目を送っていた。
「わたしはここは通らないですね。学校に通うときは別な道を使っていますから」
 わたしたちが通う学校、県立霧ヶ崎高等学校はこの駅の西口から線路に併走する通りを南に行ったところにある。
 学校の前には鉄道の高架下をくぐる道があるので、駅の東側の地域に住む生徒は大抵そちらの道を使って登校してくる。
 だからこの西口を使用するのは、霧ヶ崎外から来る生徒だけだと思う。

 それにしても、こうして威沙さんと二人で歩いていると、いつも見ている光景も違って見えるから不思議だった。
 この街を知らない人を案内しながら歩いているためかもしれないし、いつもは、晶と街をまわっていることが多いせいなのかもしれない。

 改札前を通り過ぎ、わたしと威沙さんは西口から外に出る。
 駅を出ると、向かって右手には、鉄道会社系列のデパートが入居している駅舎に連なった駅ビルがある
 この駅ビルには、周辺のお店よりも大きなゲームショップがあるため、わたしは度々利用している。
 衣服類を多少買うこともあるけど、普通の女の子みたいにブランド品などを集めたりしない。
 第一、見せる相手はいないし、今はそれを作る気もしない。
 普段着ている衣類のほとんどは、親が郊外の量販店で買ってくるもので間に合っているし、わたしはゲームや小説などの趣味にお金を掛けているので、そちらにお金を回せないということもあるけど。
 大体、これ以上目立つようにはなりたくないしね……
 今日は欲しいゲームなどは発売されていないはずなので、駅ビルにはわたしは特に行く必要は無いけれど……
「威沙さん、旅で必要なものとかって無いんですか? もし何か必要なものがあるならそこのデパートでも……」
 わたしはビルを指さしながら威沙さんに話を振る。旅をしているなら何か必要になるものがあると思ったのだ。
 威沙さんは駅ビルを眺めて少々思案してから、首を横に振った。
「今は無いですね。この町に来る途中で買ってしまったので……」
「……そうですか……」
「ごめんなさいね。当てもない道案内を頼んでしまって……」
 心底申し訳ないような顔をして、威沙さんが謝ってきた。
「こちらこそ……気の利いた場所を案内できなくてごめんなさい……」
 威沙さんの態度にわたしの方が申し訳なくなって頭を下げてしまった。

 ふと西の空を見ると、薄く黄色が掛かった空の中で日の傾きはかなり急になってきている。
 でも、まだ盛夏を過ぎたばかりのこの時期は、まだまだ辺りは明るい。
「まだ時間がありますから、別の場所をまわってみましょうか」
 わたしは気を取り直して威沙さんを促す。
「はい」
 威沙さんは、微笑みながら軽く返事を返した。

 西口の自由通路から交差点を四角にまた ぐ歩道橋へと続く高架上に、ちょっとした広場がある。
 上野の西郷さんや渋谷のハチ公前のように特に変わったモニュメントがあるわけでもないけど、ここは場所柄、一種の待ち合わせ広場みたいになっている。
 この駅前広場を抜ければ、道路に降りるための階段があるのだけど……
 ここは、大抵は人待ちをしている人たちが集まっているけど、そこを狙うかのごとくナンパ男の巣窟ともなっているのだ。
 だからいつもここに来るときは一人で来ることは無く、大抵晶と一緒に来ていることが多かった。
 今日は威沙さんと一緒だけど、この人の場合……
「いよ〜 そこの彼女たち〜」
 ……わたしの思考を破壊するような、空気が抜けた張りのない声がわたしたちに向けられた。
 お早い登場で……
 振り向くと、そこには一応学生服は着ているものの、まともに学校すら通っているか怪しい風体の男が立っていた。
 わたしはいつものことだけど、このわたしの隣に立つ威沙さんも容姿はかなりいい線を行っていると思う。
 そんな人がこんなところで手持ちぶさた気味で立っていれば、当然ナンパ男どもの標的になってしまうのも致し方がない。
「これからどこ……」
 しかし、そのナンパ男の言葉が途中で途切れてしまった。
 よく見るとその男は、わたしではなく威沙さんを見て驚いたらしい。
 しかし、威沙さんの顔を見たぐらいで言葉を止めるなんて……
「どうかしましたか?」
 緊急停止してその場に固まる男に対して、威沙さんはいつものように柔らかい口調で口を開いた。
「いや、何でもないです……」
 見るからに萎縮してしまっている男の姿があまりにも滑稽なので、わたしは笑い声を上げそうになってしまった。
 しかし、そのナンパ男が額に冷や汗をかいているのを見て、さすがにわたしも様子がおかしいことに気がつき始めた。
「わたしたちに何かご用ですか?」
 わたしが口を開く前に、威沙さんが立て続けに男に尋ねていた。
 もちろん、この男の目的はナンパだったのは一目瞭然なんだけど、威沙さんはそれをわざと確認しているのだろうか?
「ひぃ……」
 男は短い悲鳴を上げると、そのまま回れ右して走り去ってしまった。
「……な、何なんですか……あれ……」
 まるで幽霊か妖怪でも目にしたような男の行動に、わたしは面食らっていた。
「さあ……」
 威沙さんは相変わらずのマイペースな受け答えで呟いている。
 隣に立つ威沙さんの顔をのぞき込んでも、別に何かをとぼけている様子もうかがえない。いつもの柔和な表情を浮かべているだけだ。
 大体、わたしとほぼ並んで立っていたのである。
 何かしたならさすがに気が付くと思うけど……
「さて、次はどこに向かいますか?」
 威沙さんは逃げ去ったナンパ男のことなど露にも気に掛けた様子がない。
「そ、そうですね……」
 威沙さんから視線を外し、顔を上げたわたしの目の中に学校の屋上が映った。
「あの建物は……?」
 あたしと同じ方向に目を向けた威沙さんが尋ねてきた。
 この場所から南側には他に高い建物がないので、3階建てしかない学校の校舎でもより目立って見えるのだ。
「わたしたちの学校、霧ヶ崎高校ですよ」


  ――暮れゆく夏日かじつ ……――

 わたしと威沙さんは、ナンパ男が自動消滅した駅前広場から歩道橋を渡り、その下を走っている道路の歩道に降りた。
 線路と平行するこの道路は、街の東にある幹線道路に次いで広い道路であり、その分交通量も多いためひっきりなしに車が行き交っている。
「そういえば、威沙さんは車で旅をしているんですよね?」
 霧ヶ崎駅から南北どちらの方向に行っても次の駅までの距離は相当ある。徒歩では移動できない距離だし、バスを使っての移動ならこの街に立ち寄っている理由も浮かばなかった。
「そうですよ」
 真っ白なワンピースを着こなしている威沙さんを見ていると、車を運転しているようなイメージはあまり思い浮かばないけどね。
 むしろ、運転手付きの黒塗りの車に乗っている方が似合っているような気がする。
「どんな車に乗っているんですか?」
「ワンボックスタイプの、普通の車より大きめの車ですよ」
 車にはあまり詳しくないので、ぱっと形が思いつかない。
 わたしが車の形を思い浮かべられなかったのを悟ったか、威沙さんは横を走る道路に目を向けて、
「ちょうど、向こうから走ってくるあの車と同じですよ」
 と、こちらに向かってくる車を指さした。
 わたしが目を向けると同時に、その車はわたしたちの横を走り去っていた。
 ワンボックスタイプでは思い浮かばなかったけど、そのフォルムを見る限り、よく見覚えのある車だった。
「あれって、なんていう名前の車なんですか?」
 わたしは、走り去った車を指さして尋ねた。
「……『セレネ』といいます」
「『セレネ』ですか……」
「英語で『穏やかな』という意味です」
 名前の意味を聞くと、あのずんぐりむっくりな車体から、不思議と清楚な印象が浮かび上がってくる。
 『穏やかな』か……物静かな威沙さんにはよく似合う名前よね。
 それに、セレネって月の女神の名前でもあるわね。
「まあ、わたしの車じゃないんですけどね……」
 わたしたちの横を走り去ってゆく車を目で送りながら呟く威沙さん。
「自分の車じゃない……?」
「借り物ですよ、もう何年も借りたままになっていますけどね……」
 威沙さんは先ほどと同じ車を、目を細めて見送っていた。
 多分、威沙さんが探している人なんでしょうね……貸した人……
 どことなく遠い目をしている威沙さんの顔を横目で見ながら、わたしはそう考えていた。

 道路を南へとしばらく歩くと、フェンスとそれにつながる校門が姿を現した。
 コンクリート製の校門の壁には、『県立霧ヶ崎高等学校』と刻まれたプレートが埋め込まれている。
 ここがわたしたちの学校、霧ヶ崎高校。
 まだ出来てから二十年くらいの比較的新しい学校だけど、割合自由な校風と駅から近いこともあってそこそこ人気がある。
 まあわたしや晶は、地元だから歩いて通えるという理由で選んだけどね。
「ここが美樹さんの学校なんですね」
 威沙さんは、校門のプレートを眺めている。
「ええ、そうですよ」
 校門から見て左手に校舎へと続く昇降口、奥には体育館が見える。
 また、南向きに面した校舎の向こう側には、校庭が広がっている。
 まだ暗くなる時間でもないので、運動部の生徒が練習に励んでいることだろう。
 校門からは、部活や居残りの生徒たちが、談笑しながらそれぞれの場所へと帰って行く。
「活気のある学校ですね。部活も盛んなようですし、生徒たちの表情も明るいですし……」
「ちょうど試験明けなんですよ、今は。テストの真っ最中なんてこの世の終わりみたいな顔している人もいましたよ」
 わたしは戯けた調子で肩をすくめた。
 テストが嬉しい人も少ないでしょうしね……
「よお、星野じゃないか、こんなところで何やっているんだ?」
 校門から出てきたスーツ姿の女性から声が掛かった。
「あ、千鶴先生」
 緩やかにウェーブの掛かっている長い髪を垂らしたこの女性は、わたしが所属する部活の顧問であり、保健室の守護神・白衣の堕天使・幻想と絶望の顕現存在……等々数々の異名を誇る保険医・北条千鶴先生だった。
 長身でモデル並みの容姿を誇る上、その腕っ節は言い寄ってきた男性教師をことごとく打ち倒すという最多撃墜数保持者レコードホルダー の猛者。
 その豪快っぷりから、生徒にはとても人気がある先生だけどね。
「今日は部室の鍵を早めに返してきたから、もう帰っていたと思っていたんだが……」
「ええ、ちょっと人を案内しているんですよ」
 わたしがそう言うと、千鶴先生はわたしの隣に立っている女性、威沙さんに目を向けた。
 千鶴先生の視線を感じて、威沙さんが軽く頭を下げた。
「時堂威沙と申します。美樹さんには先ほどお会いしたばかりですが、この街を案内していただいています」
「なるほど……、わたしはこの学校の保険医をやっている北条という。よろしく」
 と、互いに挨拶を交わした。
「千鶴先生は、わたしが所属する部活の顧問をやっているんですよ」
「美樹さんはどこの部活に所属しているんですか?」
 わたしの紹介に威沙さんは、千鶴先生の後ろに建つ校舎を眺めながら尋ねてきた。
「天文部ですよ」
 わたしは、小さい頃から星を見るのが好きだったので、この学校に入学してから直ぐに天文部に入部した。
 残念なことに中学には天文部はなかったから、この高校に天文部があったことは嬉しかったんだけど……
「……実態は幽霊部員の巣窟なんですけどね……」
 困ったことは部員でまともに活動しているのは、わたしと半ば強引に勧誘した晶だけ。
 そのほかの部員は、半年近く経った今でも顔を見たことすらないような人までいる。
 そのため、一年生にしてわたしが部長を務める羽目になってしまった。
 晶は天文に興味があったわけではないけど、星を見ること自体は好きらしく、観測日にはいつも顔を出してくれる。
 ……まあ、機材の設置とかは殆どわたしがしているけどね……
「そういえば、今日は水月と一緒じゃないのか?」
 校門前を見渡して、晶が見あたらないことに気がつく先生。
「晶は、今日は早く帰らないと行けない用事があるって、先に帰りましたよ」
「そうか、ならばあまり一人でうろうろしないようにな、まあ幸いこの時堂さんは頼りになりそうだが」
 威沙さんに目配せして呟く先生。威沙さんはその意味をどう取ったのか分からないけど、意味深な微笑みを千鶴先生に返していた。
「はい、ところで先生も帰宅ですか?」
「いや、ちょっと買い出しに出て来るだけだ。まだ部活動も終わっていない時間だからな、さすがにこの時間で保険医が不在なのは不味い」
 保険医としては至極真っ当な台詞なのだが、千鶴先生が言うとどうもしっくり来ない感じがするのはなぜだろう……
 ……口に出したらげんこつが飛んできそうなので、黙っておくけど……
「呼び止めて悪かったな、時堂さんに学校を案内してやってくれ」
 そういって駅前の方に歩き始める先生。
「あ、え……」
 わたしは短く呟いて、威沙さんを振り返った。
「一応、部外者を学内に入れちゃ不味いような気がするんですけど……」
 威沙さんが不審人物に見える人は恐らくいないと思うけど、建前上は、学内に生徒や保護者・教師以外は入っては駄目なはずである。
 すると立ち去る千鶴先生は片手を上げて、
「大丈夫だ、何か言ってきた先生がいたら、わたしが許可したと言えば大抵問題ない」
 などと、とんでもなく不謹慎な台詞を置いて、歩き去ってしまった。
 先ほどの言葉よりも千鶴先生らしい言葉だけど、その台詞はしゃれにならないですから……
 確かに千鶴先生が許可したと聞けば、刃向かう人は居ないと思うけど、それって一種の脅迫なんじゃ……
「良い先生ですね」
 歩き去る千鶴先生を見送りながら、威沙さんが率直な感想を述べた。
「確かに良い先生なんですけどね……」
 顧問を請け負っている天文部の活動にはあまり口出ししないけど、夜に行われる観測活動の時には必ず立ち会ってくれるし、差し入れと称して食べ物を買い込んで来たりしてくれるしね。
 とりあえず、先生の許可が出たので校舎に入れるのだけど……
「威沙さん、校舎の中を見てゆきます?」
 わたし自身はあまり気乗りはしないけど、威沙さんが見たいと答えたら、千鶴先生の名前を盾にして案内するつもりだった。
「さすがに中に入るのは不味いでしょうから、校庭だけ見せてもらえませんか?」
 まあ校庭なら、校舎の中に入るよりも他の先生方に見咎みとが められる可能性は低い。
「じゃ、中に入りましょうか」

「皆さん、頑張ってますね」
 赤味がかかり始めた日の光に照らされて、砂がひかれている校庭も同じ色で染められていた。
 その校庭を、野球部とサッカー部が半々の面積で分け合って練習を行っている。
 野球部の場所から放たれる打球が、時折サッカー部の部員の前まで転がったりしているのが見えた。
 また、校庭と校舎前の道との間にあるコートでは、テニス部とバレーボール部が練習をしている。
『がっせっ! がっせっ! 霧ヶ崎ぃぃーーー!』
 校門付近にいるわたしたちまで、校庭の端の方から気合いの入った濁声が響き渡ってきた。
 応援部の発声練習がここまで聞こえてきたのだ。
 そちらに目を向けると、発声練習をしている人たちの隣で、団旗を持った人がその大きな旗を風になびかせ、旗支持の練習を行っている。
「わたしは天文部だから、運動部のことはよく分からないけど、みんな楽しそうですよね……」
 もちろん天文部がつまらないわけじゃないけど、長い間の観測記録を元に結果を出す活動と違って、運動部はどちらかといえば、一瞬の技や駆け引きによって結果が決まるものだから、絶対的な違いがある。
 個人プレーなスポーツはともかく、団体競技になるとチームワークが大切になることからも、やはり研究活動とは違うような気がする。
 研究活動でもチームワークが大切な場合もあるけど、やっぱりその中に秀でた人がいることが多いと思う。
 スポーツはチームワークでカバー出来る場合があるけど、研究活動ではどうしても埋められない資質の差ってあるんじゃないかと思っている。
 ちなみに、わたしは運動は全く出来ないわけでもないけど、スポーツはあまり得意じゃない。
「一人一人、それぞれにやりたいことがあって、そしてここにいる……」
 隣に立つ威沙さんが、夕日に照らされた顔を校庭に向けていた。
「え……?」
「人はやりたいことがあってこそ、光り輝くと思ってます。結果がどうあれ、それに向かって進んでいるときこそが素晴らしい時間なんですよ」
 ……やりたいこと……自分が望むこと……
 また再び、応援部の叫びが轟き渡ってきた。
 声を振り絞って、今はその前に無き応援すべき相手に対して……
「美樹さん、あなたは今何を望んでいるんですか……?」
 唐突に威沙さんがわたしへと問いを投げてきた。
「……わたしは……」
 そのとき、わたしから言葉が発せられることは無かった。


  ――時の流れに埋もれし……――

 既に日の傾きは急角度になっていて、すっかり日の色も真っ赤に染まっていた。
 しばらく校庭を見渡して立ち尽くしていたわたしと威沙さんは、学校を出て駅の方に戻り始めていた。
 5分ほど歩いた頃、突然威沙さんが足をその場にとど めた。
「……あれは……?」
 威沙さんは、わたしに尋ねるように空へと視線を向けた。
 わたしがその視線を追うと、その先には周りより頭一つ抜きんでた高さを誇っている大木があった。
「あ、あれは、この近くにある公園の木ですよ。確か名前は『のぞみヶ丘の公園』……このあたりでは結構大きな公園ですね」
「……公園ですか……」
 威沙さんはちょっと思案顔をすると、
「美樹さん、ちょっと歩き疲れたので、その公園で休んでゆきませんか?」
 と誘ってきた。
「え、ええ……いいですよ」
 わたしが返事を返すと、今までとは違って威沙さんは、わたしを引き連れるように、先々歩き始めた。

 さらに5分ほど歩いただろうか、わたしたちは『のぞみヶ丘の公園』まで来ていた。
 この公園は、この街が出来た当初から子供たちの遊び場として設置された経緯がある。
 元々この辺りは森だったそうで、その森で自然に生えていた木の大半を残したままで造成したらしく、普通の公園にない大きさの木々が多い。
 中でも公園のほぼ真ん中辺りに位置する、先ほど威沙さんが見つけた大木は群を抜いた大きさをしている。
 昔は砂地だったけど、今は芝生がひかれ、子供たちがサッカーやキャッチボールをしているのをよく見かける。
 シーソーやブランコなどの遊戯具もあるけど、一時期の欠陥問題で固定されてしまったまま、放置状態になっているようだ。
「……………………」
 威沙さんは、この公園に来るまで終始無言だった。
 確かに、元々あまりしゃべるような人じゃないけど、この場所に来るときだけは何か重苦しいものを抱えているような様子だった。
 それに釣られたかのように、わたしも殆ど口をきかずにただ道案内だけをしてきた。
 公園の入り口にある『のぞみヶ丘の公園』と彫られたいしぶみ に目を向けた威沙さんは、
「この碑は比較的新しいですね……」
 そういって、土埃つちぼこりすす けている碑の表面を手でぬぐ った。
「そういえば、この公園に一時期、マンション建設計画があったらしいですよ」
「マンション建設……?」
 この公園がある場所は駅からかなり近い。そのためこの公園を潰してしまってマンションを建築しようという話が持ち上がったことがあるらしい。
 公園は丘の麓に近い位置にあるため、周辺に旧来からの住宅もなく、日照権などの問題も発生しにくいとされたらしい。
 しかし、当時これほど大きな公園が他になかったこともあり、住民からは反対運動があったという。
 建設はその当時の町長が主導で動いており、住民の反対を押し切って工事を始めようとしたらしい。
 実際、この公園に重機が持ち込まれていたことは、幼いわたしの記憶にも残っていた。
「その工事、どうして行われなかったんですか?」
「……工事が開始される直前になって、その町長と建設会社との癒着スキャンダルが報道されたんですよ」
 同じ街に住んでいるのだから、地元の恥を晒すようでまこと に恥ずかしいのだけれども、良くあるお約束通り、町長と建設会社の間で不正な取引が行われていたことが発覚。
 町議会で即時工事中止が決議された上、同時に町長の解任動議が提出され、その場で賛成多数により可決。
 町長および一部の職員、そして建築会社の重役が次々に摘発されるという事態になってしまった。
 その後、別の建築会社によってこの公園は整備され、今のような芝生敷きの公園となったのである。
「そんなことがあったんですね……」
 威沙さんがしみじみと頷いていた。
 ただ、謎なのは、そのスキャンダルを誰が報道機関に垂れ込んだのかが、今もって不明ということだ。
「まあ、今は普通の公園ですから、子供だったわたしや近隣の人たちには良かったでしょうね」
「そうですね」
 威沙さんは碑から離れると、公園の中に入っていった。
 この公園は霧ヶ崎高校の校庭よりも大きな面積を持っていて広々としているけど、遊戯具類が少ないので若干寂しい感じがする。
 公園のシンボルともいうべき背の高い木々も、低い位置にある枝は子供が上らないようにするため、切り落とされている。
 ここから離れた、木々のあまりない芝生の敷地で小さい子供たちが追いかけっこをしているのが見える。
 わたしは威沙さんの後をついて行くような形で公園を歩いている。
 威沙さんはまるで目的地があるかのように、まっすぐに芝生の上を歩いてゆく。
「威沙さん、どこに行くんですか……?」
 わたしが声を掛けると威沙さんの足が止まった。
「ここです」
 そういって目の前の大木の幹に手を添えながら、後ろを付いてきたわたしの方を振り向いた。
「ここは……」
 目の前にある大きな樹……それは威沙さんがこの公園に来るきっかけを作った巨木であった。
 周りにある木よりも一際大きく、盛夏の頃ではないとはいえ、未だその身に青々と茂った枝葉を存分に広げている。
「これがどうかしたんですか……?」
 威沙さんはわたしの問いに答えず、再び体を樹の方へと向けた。
 そして、静かに目をつむ る威沙さん。
 ……いったい何を……
 そう思った瞬間……

  世界が眩くような蒼と翠に染まった。

「な……!?」
 これはいったい……!
 日が殆ど落ちて薄暗くなり始めたその場から一転、真夏真昼の太陽が地面に照りつけ、草木が競うように茂る季節へと置き換わった。
 しかし、暑いとも熱いとも感じない……
 ただ、そういう光景がわたしの目の前に映し出されている。
 呆然と立ちつくしたわたしの元へ頭上から白く輝くものが降りてきた。
 一見、光に照らされた雪のようにもみえたけど、それは透明感のある真っ白な羽根だった。
 どんな鳥の羽なのか判別の付かないその羽根を手に取ろうとしたが、羽根は何事も無かったかのように、わたしの手をすり抜けていった。
「えっ!?」
 わたしが短く驚いた瞬間、一瞬にして世界が闇に消えた……

「……美樹さん、美樹さん、どうかしたんですか?」
 はっとなるように気がつくと、先ほどの木を背にした威沙さんがわたしに声を掛けていた。
「え、あ、そ、その……」
 何が何だか分からなくなって、軽いパニック状態に陥るわたし。
 今の光景はいったい何だったの……
「急にぼーっとしてしまったので、驚いてしまいましたよ」
 わたしの顔をのぞき込むようにして、ついさっきまでのわたしの様子を語る威沙さん。
 もしかして、今のが白昼夢というものなのかもしれない……
 でも、あんな光景、今までみたことが無いんだけど……
 ……もしかして、疲れているのかな……わたし……
 最近、よく眠れない日もたまにあったから、身体的にも精神的にも疲れが来ているのかもしれない。
 今日は帰ったら早めに寝てしまった方がいいわね。
「……ここではこんなことがあったんですね……」
 幹を軽く小突くように手を添えると、威沙さんがぽつりと呟いた。
 ……こんなことがあった?
 威沙さんは、目の前にある大樹の天辺を見つめていた。
 まるで遥か遠くを見渡すように……
「威沙さん……?」
「いえ、こちらのことですよ。さて……」
 ゆっくりと振り払うように首を横に振ると、威沙さんはいつもの柔らかい笑みを取り戻して呟いた。
「……あなたの悩み、そろそろ聞かせてもらえませんか?」
 威沙さんは大樹の幹を背にして、わたしへと言葉を紡ぐ。
「え……?」

 わたしは、何を今更……と思った。
 三洋堂で初めて会ったとき、威沙さんはわたしの悩みを聞いてくれると言っていたが、悩みの内容を話す前に街を案内して欲しいと打ち切っていたのだ。
「美樹さん、今あなたがいる場所を振り返って……少しは悩みの正体が掴めたんじゃないかと思ったんですよ」
 白地のワンピースの裾を軽く風に舞い乗らせて、威沙さんは静かに話す。
「悩みの正体……?」
 わたしの悩みは……
「ナンパが……うるさいことでした……」
 そう、わたしは以前からしつこいナンパに悩まされてきた。
 先ほど三洋堂に行く前にも、そして駅前広場でもあったように、あのようなナンパと商店街や駅前などの繁華街に出るたびに遭遇していた。
 ……でも……
 この威沙さんと、この街のいろんな場所をまわっているうちに気がついたことがあった。
 この人と歩いていると、普段歩いている場所がいつもとは違う感じがしていたのだ。
 まるで人事のように、わたしたちが居るはずだった日常の側面を見ていた……そんな気がする……
「でも、その悩みの本質はそうではないでしょう?」
 まるで、わたしの悩みが最初から分かっていたかのように言う威沙さん。
「……はい……」
 『ナンパ』というのは悩みの一番顕著な例であり、一面でしかない。
 わたしの本当の悩みは……
「周りから見られているわたしと、本当の自分自身が一致していないこと……」
 いつもいる場所を客観的に眺めていたことにより、その本質に気付かされた。

 ――中学時代、まだ晶と出会う前だった。

 そのころのわたしは学校内で孤立していた。
 別に問題行動を起こしていたわけでもない。
 ただ『何もしていなかった』だけ……
 そのわたしが、中学の半ばを過ぎる頃になると、繁華街で年上である高校生などに声を掛けられることがしばしばあった。
 いわゆるナンパなわけだけど、わたしは特定の男の人と付き合うようなつもりもないから、鬱陶うっとう しいだけだった。
 しかし、その声を掛けられて困っているところを当時のクラスの女子に見つかってしまい、それ以降、学校の中で良からぬ噂を立てられるようになってしまった。
 当時から多少大人びた容姿をしていたせいもあって、クラスの女子生徒から変な目で見られていたことはあったけど、それがそのナンパの目撃のお陰で、一気に爆発してしまったらしい。
 噂が広まった後は……あまり思い出したくもない……子供じみた嫌がらせを受けていたことだけは確かだった……
 今から思えばただの妬みだったのだろうけど、まだ同じ子供だったわたしにはつらい出来事だった。

 どうして、自分でない自分を勝手に作り上げられるの……
 どうして、本当の自分は誰も知らないの……
 どうして、わたしは本当の自分でいられないの……

「わたしは、自分以外の何かによって自分というイメージを作られてしまったことが、耐えられなかった……」
 この容姿は自分で努力して手に入れたわけでもない、化粧もしないし、髪を切る以外で美容室にも行かない。
 ただ、生まれてから、そのままなのに……
 それなのに、まわりは『そうやって男の気を引こうだなんてサイテー』などと勝手なことを言っている。
 それからしばらくの間、クラスや学校内では塞ぎ込んだわたしの姿があった。
 直接攻撃的になる女子は少なかったから、もっぱら陰口をたたかれている程度で済んだのは良かったのかもしれない。
「……美樹さん、わたしはね、人は三つの自分を持っていると思いますよ」
 しばらく黙って聞いていた威沙さんが口を開き静かに語る。
「三つの自分……?」
「今、美樹さんが言った『他人から見た自分』、『自分が考えている自分』、そして『本当の自分』……」
 威沙さんは右手の指を一つずつ上げなら、言葉を並べる。
「本当の自分……」
「他人から見た自分は見る人によって変わってしまいますし、自分で考えている自分もそのときによって変わってゆくでしょう。でも、いつどんなときでも変わらないのは本当の自分です」
 ……本当の自分……わたしの本当って一体何なんだろう……
「美樹さん、あなたの掛けているその眼鏡、度が入っていませんよね?」
「えっ! い、いつから気がついていたんですか!?」
 この眼鏡が伊達であることを知っているのは、わたしの家族ぐらいだ。これまで出会った人でも気がついた人はいなかったのに……
「割と最初からです。わたしも細かい作業中には眼鏡を掛けてますから、何となく気がついたんですよ」
 それでも簡単に気が付くなんて、この人の観察力には凄まじいものを感じた。
「恐らく、あなたは目立たないような印象を付けるため、わざわざそのような眼鏡を付けていたのでしょうけど、それもあまり役に立っていないみたいですね」
「はい……」
 眼鏡を掛けたぐらいでは容姿なんて隠せないし、以前晶が『眼鏡を外して正体ばれると実は美人なんてあり得ない、美人は眼鏡を付けていても美人に決まっている』というお約束を根本から覆すような台詞を吐いていたのを思い出す。
 結局のところ何をしても無駄だったと思い始めていた。
 そんな塞ぎ込んでいたわたしに声を掛けてくれたのが、中学二年の後期に偶然出会った女の子、水月晶……晶だった。
 あの快活で行動力のある晶に引っ張られてようやく、今のわたしがある。
 晶は、わたしが以前から今のような一風変わった趣味をしている、明るい性格の女の子だと思っている。
 実際には晶のお陰でそうなれたのだけど……
 でも、最近また思うようになってきた……高校に入学してからさらに酷くなったナンパ……それがきっかけではあるのだけど……
「なんで……だれも、わたしを知らないの……」
 ……と……
 結局、親友であるはずの晶ですら本当のわたしを知らないような感じがする。
 ナンパがうるさいという表面的なことしか感じなかったため、ついさっきまで本質に気が付いていなかったけど、とどのつまりそういうことなのだろう。
 そのとき、再び口を閉ざしてわたしの話を静かに聞き耳を立てていた威沙さんが、わたしが手に持っている学生鞄を指さした。
「そうですね…… では、あなたが今日本屋で買った小説……『銀の髪』の登場人物、ユークリッドはどうしてその地位を捨て、旅に出たんですか?」
 ……魔導師ユークリッド=クライド……本当はさらに=スレイという名を持ち、舞台となる世界に古くから存在する大国の王子であり、その第一王位継承者であった。
 しかし、父である先王が無くなったと同時に王都から姿を消し、当て所もない魔法修行の旅へと旅立っていた。
 ユークリッドには双子の弟がおり、第一王子が所在不明となった後、この弟が王位につくこととなった。
 王妃である実母が兄であるユークリッドではなく、弟の方を溺愛していたため、王位を譲ったという経緯もあったが、元々ユークリッドは王位を望まず、幼い頃から乳母に教えられた魔法に興味を示していた。
 そのときのことを仲間に語ったとき、ユークリッドが言っていた言葉……

 『俺は俺だから、俺以外の何者でない、自分自身のために、自由に生きて行きたいと思った……』

「自分自身のため、自由に……」
 わたしの言葉にうなずく威沙さん。
「そう、他の誰でもない自分自身のため、自由に生きて行きたい……それが、彼の望みでしたね……」
 威沙さんは、木の幹に手を置いて言葉を続けた。
「美樹さん、あなたが悩んでいる男性からのアプローチが頻発する件、それはいわば天性の才とも言えます」
「……天性の才……?」
 反芻するわたしに、うなずきを返す威沙さん。
「あなた自身が努力して手に入れたわけでもない、かといって人に誇れないものでもない……しかし、それは、あなたを認識する周りの存在があなたを本質とは別なものとして捉えてしまう結果になってしまっています」
 そう、確かにわたしは努力してこの容姿を手に入れたわけではない。
 こんなことを言ってしまうと世の女の子に非常に失礼だと思うけど、努力しなくても元から身に付いていたものなのだから外しようがないものなのだ。
「天性の才能も、本人がそれを有効に活用するように望まなければ、役に立たないばかりか、むしろ害をもたらしてしまうこともあるでしょう」
 威沙さんはそこで一息置いて、話を続ける。
「美樹さんはその容姿のため、周りの男性を引きつけてしまっていますが、それを良しとするか、邪とするかはあなた自身です……でも、一つだけ言えることがあります。それは先ほどあなたが言ったユークリッドの言葉」
「自分自身のため、自由に……」
「そう、結局最後には、周りなんて関係ないんですよ。自分自身が良しとするように生きることが大切ですから」
 ユークリッドは生まれてすぐに持っていた王族としての生き方を捨ててまで旅に出た。
 『自分自身のために』そう生きることを選択したのだ。
 もちろん完全にそれを断ち切ることはかなわなかった。王族としての運命が無関係を許さなかったからだ。
 それでも、王族として争いに巻き込まれたにもかかわらず、ユークリッドは自分を見失わず再び旅へと戻った。
「……周りなんて……関係ないんですね……」
 そう、まわりがどう思ってわたしに近づいてきたとしても、わたし自身がちゃんとわたしである限り、わたしはわたしでいられる。
 わたしが得た答えに納得したようににっこりとした笑顔を見せる威沙さん。
 たぶん、わたしの顔にも自然と笑みが浮かんでいたんでしょうね。
「ありがとうございました。なんだかすっきりした気分です」
「いえいえ、わたしはあなたの答えを見つけるお手伝いをしただけ、この街を案内してくださったお礼ですよ」
 そういって威沙さんは既に深い藍色に染まった空を見上げる。
 東の空低くに、真円を描いた月が登り始めていた。
 いくらこの時期が日が長いとはいえ、さすがにこの時間になると街灯が灯り始めている。
 威沙さんは幹から離れると、わたしの肩に手を置いて、目を閉じた。
「……美樹さん、あなたには強い力を感じます……」
「え……」
 わたしの軽い驚きの声とともに、威沙さんが目を開け、わたしの瞳を覗き込んできた。
 強い意志の力を感じる不思議な赤い瞳……みているだけで吸い込まれそうな感じがする。
「自信を持って自分自身と向き合って行ければ、あなたはきっと他の誰でもない自分自身として生きて行けると思いますよ」
 ポンポンと軽く肩を叩いて、威沙さんは両手を背中で組み直した。
「そして、もう一つ」
 威沙さんは、人差し指を立ててわたしの目の前に突きつけた。
 その仕草が妙に子供っぽくて、可笑しくなってしまった。
「あなたはまだ気が付いていないことが一つありますけど、それはあなた自身が見つけてくださいね」
「ええ……!? どういうことですか!?」
「それは、秘密です。ヒントは千鶴先生も知っていることですよ」
 わたしの問いには答えず、不明瞭なヒントだけ言うと、威沙さんはにっこりと笑って、まるで子供が隠し事をするかのように「シーっ」と口を閉ざす真似をした。
「さて、戻りましょうか。随分遅くなってしまいましたからね」
 話題を煙に巻いて、公園の出口の方へと歩き始めてしまう威沙さん。
「ちょ、ちょっと待ってください! いったい何が秘密なんですか!」
「だから秘密ですよ」
 今にもスキップでも踏み出しそうな、軽い足取りの威沙さんを追ってわたしも走り始めた。


  ――夜闇の空を風がすり抜けてゆく……――

 商店街にある本屋さん、三洋堂の前まで戻って来たときにはすっかり日が暮れていた。
「美樹さん、今日は本当にありがとうございました」
 店先で向き合う威沙さんがわたしに深々と頭を下げてきた。
「いえ、わたしこそ相談にのってもらっちゃって……」
 大した街案内が出来なかった上、そもそもその案内そのものが、わたしの悩みを聞くための前振りだったのだ。
 結局、威沙さんにわたしは何もしてあげられなかったのに等しいと思うのだけど……
 威沙さんは、そんなことを露にも気にした様子もなく、実に落ち着いた顔をしている。
 わたしも、このくらいの年になったら、こんな貫禄のある態度を取れるようになるんだろうか……?
「美樹さん、これから頑張ってください」
 差し出された威沙さんの手を握りかえして、
「はい!」
 とわたしは答えた。
「威沙さんは、これからも旅を続けるんですよね?」
「はい、探している人が見つかるまで続くと思いますよ」
 当てもない人捜しの旅……現実的ではない話なのに、この人が語るとまるで正しいかのように聞こえる。
「わたしはわたしであるために、あの人を捜すのですから……」
 さっきわたしに言ったことを、まるで自分に言い聞かせるかのように呟く威沙さん。
「さて、あまり遅くまで引き留めては不味いですね。そろそろわたしも車に戻って次の場所に向かおうかと思っています」
「はい」
 威沙さんは手を離すと、手にしていた財布の中から一枚の紙片を取り出し、わたしに差し出した。
「これを渡しておきますよ。何の役にも立たないかもしれませんけどね」
 それは名刺だった。
 わたしはまだ高校生だから名刺の受け渡しなんてしたこと無いけど、ぱっと見ちゃんとした印刷所で作られたと思われるデザインの名刺だった。
 そういえば、最初は大学生だと思っていたけど、三洋堂で仕事をしていたことと名刺を持っているところからして、この人は社会人なんだろうか?
「ありがとうございます」
 わたしは差し出された名刺を受け取り、折れ曲がらないように鞄の中にあった文庫本の中に挟み込んだ。
「では、わたしは参ります。また、この街に立ち寄ることがあったらこの本屋さんに来ることにします」
 三洋堂のガラス戸から放たれている蛍光灯の光を横から浴びながら、威沙さんは微笑んでいた。
「さようなら、またお会いしましょう」
「またです」
 手を振りながら、わたしに別れを告げた威沙さんは、商店街の脇道へと消えていった。

 また、いつか……会うときが来るといいな……
 そのときには、威沙さんが言っていた問いが分かっているといいんだけど……


 威沙さんを見送ったわたしは、腕に巻いていた時計をみる。
「八時か……そろそろ帰らないと夕食に間に合わないかもね」
 わたしの家は、ことさら門限が厳しいわけでも無いけど、わざわざ遅く帰る必要もない。
「おや、美樹ちゃん、まだ帰らないのかい?」
 振り向いて三洋堂の店先をみると、店仕舞いの準備をしていた店長さんがこちらをみていた。
「そろそろ帰ろうかと思っていたところです」
「そうか、暗いから気をつけて帰りなよ」
 店長さんは、店先に置いていた看板を店内へと運んでいる。
「はい、また今度」
「おう、またよろしく頼むよ」
 わたしは店長さんに挨拶をして、三洋堂の前から立ち去った。

「みぃつけたぁ〜」
 わたしが家に向かって歩き始めると、三洋堂の隣にある既に店仕舞いしたお店の前で、突然声を掛けられた。
「え!?」
 ついさっきすれ違った人が、わたしに振り向いていた。
 暗くてすぐに顔が分からなかったけど、この偉く間延びした軽い声は……
「昼間はどうしたのぉ〜 せっかく誘ったのに逃げちゃってぇ〜」
 ……げっ……
 もはや説明不要、昼間三洋堂に入る前に遭遇そうぐう したナンパ男その1だった。
 この人、まだこんな時間まで彷徨うろつ いていたのね……
 闇の中から現れたその男は、相変わらず、へらへらとした笑みを浮かべてわたしに近寄ってきた。
「こんな時間に何の用ですか?」
 至ってつっけんどんな受け答えで返すわたし。
「いやいや、昼間いった通り、お茶でもどうかと〜」
 ……そういえば、昼間もお茶がどうこうとか言っていたけど……ということは……
「つまり、昼間からずっとナンパして誰も引っかからなかったと……」
 思わず的確なつっこみを口にしてしまったわたし。
「な、なんだとぉ〜!!」
 男子生徒は、わたしの意外な反撃に顔を真っ赤にしている。
「まあ、そんなへらへらした顔で寄ってきても、誰もついて行かないでしょうね……」
 眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げ、いつもなら絶対に言わないような、毒を山盛りに盛り込んだ台詞を吐きまくるわたし。
 よくよく考えてみれば、こんな馬鹿ども相手におどおどしていたのが、今から思うと馬鹿馬鹿しく感じてきた。
「お、おまえぇ〜!! 人が下手に出てればいい気になりやがって!!」
 ヤクザっぽい、というかチンピラ? みたいな言い回しで叫ぶ男子生徒。
「下手も何も、下でしょう? あなた」
 ……自分の内のどこにこんな台詞が眠っていたのか知らないけど、我ながら毒がきつすぎな気がする……
「てめえぇ!」
 わたしの言葉に我慢の限界が来たのか、逆上した男子生徒がわたしの腕をつかみ上げた。
 そして、そのままねじり上げるように引っ張り上げられた!
 しまった、挑発が過ぎたか……
 殆どのお店が閉店してしまって、商店街には人通りが無くなっている。
 さすがにこの状況は不味い、こうなったら叫んででも助けを呼ばないと……
「はな……」
 わたしが「放して」と、叫び声を上げようとした瞬間……

「何やっているのよっ! あんたはっ!!」

 わたしの後ろから飛び出してきた人影が、わたしと男子生徒の間に滑り込んだ!
「えっ……!?」
「なぁ……!!」
 突然現れたその人影はわたしを庇うかのように、生徒の腕を左手で振り払い、両足を大きく開いて腰を落とし重心を低く構えた。
 そしてそのまま勢いと腰の回転を加えて、生徒のみぞおち目掛けて右の拳を振り下ろすように突き立てた!
  ごすっ!!
「ふごっぁぁぁっ…………」
 情けない悲鳴が尾を引きながら、生徒が吹き飛ばされてゆく。
  バンッ! どさっ!!
 そして、ワンバウンドして歩道に転がった。
「……うぐっ……なにしやがる!」
 そして転がったまま、男子生徒は呻き声でその殴り飛ばした相手に怒声を上げる。
「はぁはぁはぁ……そ、それはこっちの台詞よ!」
「……あ、晶……!?」
 どうして、ここに……!?
 ビシッと地面に転がっている生徒に指を指して怒声を叩き付けたのは、天文部部員であり、わたしの親友でもある女の子、水月晶だった。
「女の子に手を上げるなんて、男の風上にも置けないわよ!!」
「なんだと! 俺はただ声を掛け……」
 そこでその生徒の声が止まった。
 それは、いつの間にかその生徒を取り囲むように数人の男が取り囲んでいたからだ。

「この商店街で騒ぎを起こしているのはおまえか?」
「しかも、女の子に手を上げるとは……」
「ナンパを悪いとは言わぬが、度を過ぎるのは良くない……」

 商店街の街灯の明かりをバックにして、今にもゴゴゴゴゴゴッという効果音が響き渡りそうな雰囲気で男たちが口々に呟いていた。
「……な、何だおまえたち……」
 さすがに突然の男たちの登場に、腰を抜かしそうになっている男子生徒。
「あ、店長さん……」
 わたしはその生徒を取り囲んでいる男たちの中に見知った顔を見つけた。
「よう、美樹ちゃんに晶ちゃん。これが昼間の奴かい?」
 そういって、わたしに顔を向けてその男を指さした。
「……はい、昼間一度撒いたんですけど、またしつこく言い寄って来たんです」
 わたしが正直に答えると、三洋堂の店長さんが、
「こいつどうする?」
 と同じように腰を抜かした生徒を取り囲んでいる男たちに意見を求める。
「この人たち……この商店街にあるお店の人たちじゃ……」
 晶の言ったとおり、よく見てみれば、三洋堂の並びにあるパン屋さんや文房具店の人たちだった。
 恐らく言い寄られているわたしを見かけた三洋堂の店長さんが、応援を連れてやって来たのだろう。
「な、何をする気だ、け、警察呼ぶぞぉ!」
 慌てふためいた生徒が、強気で取り囲む男たちに言い放つ。
「いや、呼ぶ必要はない」
 洋品店の店員さんが、おもむろに生徒の後ろを指さした。
 その指に釣られて、後ろを振り向いた生徒は、ぴしっ! という音を立てたかのように石化する。
 そこに立っていたのは、この商店街を管轄する駐在所のお巡りさんであった。
「お、俺は何もして……」
「婦女暴行」
 体格の良いお巡りさんは短くきっぱりと言い放つ。
 それはさすがに拡大解釈し過ぎな……と内心思ったけど……
「ぼ、暴行ならその女のほうが……」
 生徒はお巡りさんに向いたまま、晶を指さしたが、
「正当防衛」
 再び問答無用といわんばかりに、お巡りさんはピシャリと反論をシャットアウトした。
「さて、決まったな……」
 三洋堂の店長さんが呟くと、お巡りさんはその生徒の襟首を引っ張り上げ、ずるずると引きずって駐在所の方へ歩き去っていた。
 他のお店の人たちもそれぞれのお店に戻っていった。
「それじゃ、気をつけてな」
 そう言って、三洋堂の店長さんもお店へと戻って行く。
「お、覚えてろよ〜!!」
 やられ悪役の月並みな捨て台詞を響かせ、その男子生徒は夜闇に包まれ商店街から退場した。
 ……駐在所でお説教され、明日は学校で先生に絞られることになるでしょうしね……
 わたしは、心の中でご愁傷様と呟いていた。

 騒ぎが収まった後、わたしと晶は商店街の外に向かって歩いていた。
「しかし、美樹目当てのナンパは相変わらず絶えないわね……」
 やれやれといった感じで、肩をすくめる晶。
「晶、どうして商店街にいたの?」
 後ろを歩くわたしが尋ねた。
 今日は用事があって早く帰ったはずなのに……
「どうもこうも、用事は早く終わったから、美樹の家に遊びに行ったんだけど、まだ帰っていないって聞いたから、今度は三洋堂に行ってみたら店長が『綺麗なお姉さんとどこか出かけた』って……」
 その後、晶は買い出しに出ていた千鶴先生にも会ったりしていたらしい。
 駅ビルで発売されたばかりの音楽CDを購入し、商店街を通って帰ろうとしたところで、わたしとナンパ男が揉めている現場に遭遇したとのこと。
「で、その綺麗なお姉さんはどこに行ったの?」
「ほんの十分くらい前に、三洋堂の前で別れたばかりよ」
 晶には、街の案内を頼まれて、いろいろと歩き回っていたことだけを伝えた。
 悩みの相談については、さすがに伏せたかったからだ。
「まあ、運良くあたしが通りかかったし、商店街の人たちも来てくれたからいいものを、あんまり一人で歩かない方がいいわよ。美樹は」
 千鶴先生に言われたことと同じようなことをいう晶。
 晶にはいつも守ってもらってばかりだな……
 なんだかんだ言っても、ナンパ男から何度も助けてもらったし、天文部の時だって……

 『あなたはまだ気が付いていないことが一つありますけど、それはあなた自身が見つけてくださいね』

 ふと、威沙さんが残していった言葉を思い出した。
 ……そっか……威沙さんが言いたかったことは、このことだったのかもしれない……
 弱かったわたしを守ってくれていた存在、わたしも気付いていなかった、そして本人すらもそんなつもりは全くないだろう。
 その本人に会ったことすら無いのにそれを見抜いていた威沙さんは凄いけど、千鶴先生もそれに気が付いていて、ああ言っていたんだろう。
 ……晶……
「ありがとうね」
「ん? いいわよ別に、いつものことでしょう」
 と、いつもと変わらない快活明朗な笑顔をわたしに向けて来た晶。

 わたしはこの笑顔に守られてきたんだな……と、改めて実感した。

「……威沙さん、また会えるといいな……」
「威沙? それが噂の綺麗なお姉さんなの?」
 わたしの小さな呟きを聞きつけた晶が言い寄ってきた。
 ……三洋堂の店長さん、いったいどういう話をしたんだろう……晶の口ぶりからすると、相当綺麗な人と印象づけられているみたいだけど……
 確かに、綺麗な人だったけどね……威沙さんは……
「そう、時堂威沙さん、人を探して旅をしているんだって……そういえば、名刺をもらったっけ……」
 わたしは鞄の中から今日購入した『銀の髪』文庫本を取り出して、その中に挟んでいた名刺を引き抜いた。
「えっと、なになに……時堂威沙、ニューキャッスル出版小説部門所属作家、P/Nペンネーム月夜野悠つきよのはるか ……」
 取り出した名刺を覗き込んできた晶が、名刺に書かれている文面を読み上げた。
 ……つ、月夜野悠……!?
「ちょ、ちょっと、まったぁぁぁぁっ!?」
 わたしは思わず叫び声を上げて、手に持ったままだった文庫本の表紙を確認する。

 『銀の髪』 月夜野悠

「……………………」
「……………………」
 仏壇の前に正座する人のごとく、沈黙するわたしと晶。
 晶には以前、半強制的に『銀の髪』を勧めて読ませた経緯があるので、当然『銀の髪』は知っている。
 三洋堂の店長さんは、「作者は旅をしながら執筆しているらしい」と言っていた。
 威沙さんは、旅をしながら仕事もしていると言っていた。
 三洋堂の5階にあるテーブルで、威沙さんは何をしていたのか……
「作者さんだったわけね……」
 通りで『銀の髪』の話について詳しいわけである。
 この文庫を見たとき、威沙さんが懐かしそうな表情をしたのも当然。
 旅をしながら書いているとなれば、相当書き溜めが存在しているだろうから、執筆が終わってすぐに出版されることは無いと思われる。
 つまり、威沙さん的には、この文庫の内容は相当前に書いたものだったのだろう。
「はははははは……」
 思わず乾いた笑いを上げてしまうわたし。
 晶もさすがに呆然としていた。
 全く、世の中どんな出会いがあるのか分からないものなのね……

「また、きっと会えますよね。威沙さん」

  闇が空を覆い尽くしても、それを彩る星の輝きは絶えることはない。
   人も、自らの『本当』を見失わない限り、その輝きを失うことはない。

     そう、他の誰でもない、世界の中にたった一人だけの自分らしくあるために……


                                      夢の残照 外伝 完



終わり行く季節<

 夕闇が空を覆い尽くし、星の煌めきが目に付くようなってきていた。
 美樹と別れた商店街から一つ離れた道に隣接する有料駐車場、ここに威沙の車・セレネが駐車されていた。
 後部座席のカーテンをすべて閉められ、運転席との間にある仕切りも下ろされていた。
 ごそごそと着擦れの音が中からしていたが、しばらくするとスライド式のドアが開かれ、カッターシャツとジーパンというラフな格好をした威沙が出てきた。
 さすがにワンピースで運転をするのは辛いこともあるが、昼間歩き回ったので、薄手とはいえワンピースも汗でべた付いていたのだった。
 威沙は、胸元からトパーズ色した玉をあしらったペンダントを外に取り出した。
 このペンダント、いつもは付けているのだが、ワンピースとはデザインがあまり合わないので、今日に限っては外して車の中に置いていた。
 運動靴に履き替えたつま先でとんとんと地面を叩き、靴の中に足を納める威沙。
「さて、次の街に行ってみましょうかね……」
 威沙は前に回って運転席に乗り込むと、短くため息をついた。
 もう探し始めて半年以上が経過していた。
 連絡のメールを入れようとしたが、そのアドレスはすでに使用されていなかった。
 電話番号も定期的に変えているらしい。
 そして……
「さすがに『力』を使わないようにしているのでは、探知することも出来ませんしね……」
 それでも、この街にはその『力』の鱗片が残っていた。
 しかし、それはかなり前にその人がこの街に来たということが分かっただけだった。
『朱鷺魅様』
 唐突にその場に声が響いた。
 年若い少女の声、しかも電話や通信機を通したような変調掛かったものではなく、非常に明瞭な声だった。
 まるでその場にいるかのような……
「……その名でわたしを呼ばないでください……」
 言葉は怒っているが、威沙の顔には笑みが浮かんでいた。
『……も、申し訳ありません! つい……』
「いえ、良いんですよ。それより何かありましたか?」
 姿無き声に問いを投げる威沙。
『今日は二回ほど、『力』を使われたようですが、何かあったのでしょうか?』
 二回の力の発動、一回目は美樹と威沙に近寄ってきたナンパ男を追い返した際、二回目はあの公園にあった大樹に対して使用した際……
「一つめは大した問題ではないですが、二回目はあの人につながることを見つけたためです」
 あの大樹と威沙が探している人物には接点があった。それに気が付いた威沙が『力』を使って当時の状況を探ったのだった。
「結局、この街に以前あの人が滞在したことが分かっただけで、以降の所在をつかむためのヒントになりそうな情報は無かったですね……」
 シートに深々と腰を据えた威沙の顔には、暗い陰りが残る。
 美樹の前では見せなかった、目に見えて落ち込んでいる威沙の姿に慌てて、その声が報告を告げた。
『威沙様、実は先ほど威沙様が置いて行かれたパソコンでメールの確認をしたのですが、菜雪様からメールが届いていました』
「まあ、あの子からですか……、それでなんと言ってきているんですか?」
 その声は一息置いてから呟いた。
『……あのお方から、連絡があったそうです』
「えっ……」
 その一言に、顔には出さないものの威沙は相当驚いたらしく、戸惑いの表情を浮かべていた。
 慌てて後ろの座席に置いてあったノートパソコンを取り出し、そのメールを読んだ。


  威沙お姉さんへ。

  お兄さんからお爺さまに連絡がありました。

  今はある街に滞在していて、そこでお世話になった人が困っているらしいので、
  お爺さまに連絡してきたそうです。

  用件は既にお爺さまが対処しました。
  ですので、すぐに行かないとまた行方が分からなくなってしまうと思います。

  威沙お姉さんが探していることは伝えていません。
  場所を記載しますので、出来るだけ早く向かってもらえますか?


 メール本文の後半には、その街の詳細な住所や位置についての情報が記載されていた。
「……こんなところを旅していたんですね……」
 メールを読み終えた威沙がぽつりと呟いた。
 威沙はノートパソコンを閉じてソフトケースに仕舞い、元あった後部座席に置いた。
『いかがいたしますか?』
 威沙は、胸ポケットから車の鍵を取り出し、それを錠前に差し込んでエンジンを始動させる。
「もちろん」
 右肩から斜めに振り下ろすようにシートベルトを引っ張る威沙。
「迎えに行きます」
 威沙はハンドルを握りしめると、慣れた手つきで流れるように、シフトレバーをDにあわせ、サイドブレーキを下ろしてゆく。
 そして、ブレーキを外した車がゆっくりと動き出した。

(美樹さん、またお会いしましょう)
 威沙は昼間会ったばかりの少女を思い出しながらハンドルを握る。
 駐車場を出た車は、既に閉店した店が建ち並ぶ商店街のある駅前通りを走り抜け、幹線道路を西へと向かった。

 (再び、あの人と共にある時間が戻って来てくれることを願って……)


 ――この後、威沙が探し求めていた人と巡り会うこととなるが、それはまた別の話である――


              終わり行く季節 完

あとがき