夢とは現実事象の欠片を人の望みや恐れという旋律(リズム)をもって現したもの
その中に流れる事象連続体(ストーリー)は一貫性・連続性に欠けた無秩序なもの
しかし、その中にある存在(もの)にとってはそれが現実事象として認識される。
そして、眠りから覚めたときすべてが幻であった事に、時には嘆き、安堵する。
そう、それが夢と呼ばれる事象……

では…… 目覚めることのない夢とは果たして夢と言えるのか……?


夢の残照 第4話 壊れた記憶(ゆめ)

 あたしは走った……
 そりゃもう全力で……!
 うっさい生徒指導の先生からのお説教を、鉄格子で締め切られた校門前で聞かされるなど真っ平ごめんだ。
 ところが、全力で走っているつもりなんだけど、いつもよりも走るスピードが全然上がらない。
 地面を蹴っている足が、鉄の塊でも巻きつけられたかのように重い。
 こうやって走っている間にも、その重さがさらに増して来ていた。
 ……この調子だと遅刻よりも、学校に辿り着く前に力尽きるかもしんない……
 こんな朝っぱらから『清純な女子高生が道端で行き倒れ』などということが世間様に広まったら、ワイドショーのいいネタである。
 そんなことになったら、二度とおもてを歩くことなんて出来なくなる。
 腕にはめられた時計を横目にチラチラと見る。
  8時25分……
(……よかった……)
 ギリギリだけど何とか間に合いそうである。
 周りにも制限一杯の生徒たちの姿がちらほらと見受けられるようになった。
 あたしは走るのをやめて徒歩に切り替える。
(毎日、毎日朝食抜きで全力疾走は嫌ぁ……)
 校舎の姿が見え始めた頃、あたしは見慣れた後姿を見つけた。
「美樹ぃ〜 おはよ〜」
 あたしは小走りに美樹の背を追う。
「おはよう〜 あきら〜」
 あたしの声に気が付いた美樹があたしに振り返る。
「今日もギリギリなのねぇ……」
 美樹はため息混じりに言う。
「そういう美樹だって結構ギリギリじゃないの……」
 あたしは息切れ気味になっている呼吸を整えながらいう。
「わたしはそんな息を切らせるほど全力疾走しなくても間に合っているもん」
 あたしの前を余裕の足取りで歩いて行く美樹。
「あ、待ちなさいよっ!」
 慌てて美樹の後を追い、校門の裏側で直立不動の姿勢で目を光らせている風紀委員の前を通り抜ける。
 まわりには多くの生徒たちが談笑しながら昇降口に足を進めていた。
 あたしは校門から昇降口までのアスファルトの道を美樹にかろうじてついてゆく。
(……あ、あしが…… おもい……)
 いつの間にか引きずり加減にまでなっていたあたしの足は、次の瞬間、体を支える力を完全に失い、膝ががくっ、と折れた……
「あっ……!」
(た、倒れ……)
「あ、晶!?」
 あたしの短い叫びを聞きつけた美樹が、振り向き咄嗟にあたしの手を取ろうとしたが、その手はあえなく空を斬っただけだった。
 あたしは思わず目を瞑り、地面に倒れるのを覚悟した。
   ばふっ
 しかし、倒れこんだ地面はさほど固くない。
 それにやけに生暖かい……?
「……だから今日は休めって言っただろう……」
 あたしの頭の上から息を切らせた声がした。
 あたしが薄っすらと目を開けるとそこには見知った二つの顔があった。
 一つは駆け寄ってきた美樹。
 もう一つは……
「れ、レン……!」
 どうしてここに……と言いかけたが良く見るとレンが、うちの学校の制服を着ていることで合点がゆく。
(そういえば、レンも同じ学校だったんだっけ……)
「……やっぱりな…… 精神力の使いすぎで体がいうこと利かなくなっているんだろ?」
 レンは倒れそうになったあたしを後ろから受け止めたらしい。
「……大丈夫……?」
 美樹が心配そうにあたしの顔を覗き込んでくる。
「大丈夫よ……」
 あたしは力なく呟いた。
 なんとかここまで持ちこたえてきたけど、限界だったらしいわね……
 あたしは受身すら取れなかった状態で倒れたのだ。レンが受け止めてくれなければあたしは今ごろアスファルトで固められた地面に頭を打ち付け、血を流して倒れていたかも知れないと思うとぞっとする。
「……休めっていっただろ?」
 あたしを両手で支えたまま、レンが低い声で呟く。
「……テストがあったから休むわけにも……」
「馬鹿!」
 あたしが言い訳を言い終える前に、レンが耳が痛むほどの大声で怒鳴った。
 その大声に隣にいた美樹すらもあとさずりする。
「さっきはたまたま俺がいたからいいようなものを、誰も受け止めなかったらどうする気だったんだ!」
「そ、そんな怒鳴らなくても……」
 突然のレンの剣幕に、あたしはしどろもどろになってしまった。
「…………」
 レンは無言で顔を上げて、美樹に話し掛ける。
「すいません。俺のカバン……拾ってもらえます?」
 レンはあたしを抱えたまま、後ろに視線を向ける。
 首を横に向けレンの後ろを覗き込むと、数メートル先のアスファルトの上に茶色の学生カバンが転がっていた。
「えっ? え、ええ……」
 美樹は我に帰ったように頷き、小走りでレンのカバンと思われるそれを拾い上げる。
「さて…… 怒鳴って悪かった……」
「……べ、別に……」
 あたしは、またしてもしどろもどろになって答えた。
「それじゃ…… 保健室まで運ばないとな……」
 そう言ってあたしを抱えなおそうとする。
 背中にでも背負うのかと思ったのだが、レンの腕はあたしの背と両膝の裏で固定された……って……!?
「よっこらしょっと……」
 レンはわざとらしく掛け声をかけて、あたしを持ち上げる。
「まさか…… このまま抱えて行く気じゃ……」
 あたしがちょっと不安げな声で呟くのを聞いて、見上げているレンの顔に人の悪い笑みがかすかに浮かんだのが垣間見えた。
(こ、こいつ本気だぁ〜!!)
「おおお!? それってかの有名な『お姫様だっこ』ってやつじゃないの!」
 美樹がレンと自分のカバンを両手に持ちながら、感動の叫びを上げている。
「そこ! 感心してないで止めなさいよ!」
「さて、えっと…… たしか美樹さん……でしたっけ?」
 抱きかかえたままのあたしを無視して、美樹に向かって声をかけるレン。
「ふっ…… 部長と呼んでください」
 何故かエラソウに胸を張りながら言い放つ美樹。
 既に美樹の中では、レンが天文部に入部する事は確定事項となっているようである。
「…………」
 その踏ん反り返っている美樹を見て一瞬固まったレンだが、気を取り直して続ける。
「……えっと…… では部長さん。保健室はどちらですか?」
「はいはい、そのじゃじゃ馬なお姫様を連れて行くのね?」
 美樹は無意味に胸を反らしたまま言う。
「誰がじゃじゃ馬よ!」
 あたしはレンの腕の中から暴れ出ようとしたが、レンに足と腕を押さえつけられてしまう。
 意外に強く押さえられているため、あたしは身動きが取れなかった。
 ……それ以前に冗談抜きに体が思うように動いてくれないんだけど……
「そういう事で、案内お願いします」
「りょ〜かい。こっちですよ〜♪」
 美樹は手招きしながら昇降口に向かって、スキップでも踏み出しそうな足取りで歩き始めた。
 こいつ! 本気で面白がっているなぁ〜!
 レンはあたしを抱きかかえたまま、校内を案内する美樹の後ろについてゆく。
 ……登校する生徒達(特に女子生徒)の注目を浴びながら……
(……さらし者は嫌ぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!)
 あたしの心の中の絶叫は、誰に届く訳でも無かった……
        ☆
 昇降口であたしを一旦降ろすかと思いきや、余計なことに美樹があたしの上履きを下駄箱から取り出し、代わりに今まで履いていた靴を収める。
 レンの分は、レンの鞄から上履きを取りだし、目の前に置いて履き替えさせたのに、あたしのほうは靴を脱がしただけで上履きは美樹が抱えたままだ。
 ……美樹……あんた、あたしが上履きを履いて逃げ出さないようにしているわねぇ〜!!
 美樹はあたしの怒りの視線を知ってか知らずか、にこやかな表情で保健室へ先導する。
 うううう…… このままで保健室に行ったりしたら『あの人』が絶対絡んでくるに違いないぃぃ〜!!
 それだけは避けたいけれど、レンに押さえ込まれるように抱えられている今のあたしには何も出来なかった。
 ちなみに先ほどから、すれ違い、通り過ぎて行く生徒及び先生達の反応はさまざまだったが、誰も止めようとはしなかった。
 ある先生なんぞ、
 「いや〜 青春だねぇ〜」
 などと戯けたことをぬかしてくれた。
 ……くっそぉ〜! レン! 美樹! 体が思うように動くようになったら見てなさいよっ!
 あたしの怒りを知らずに、あたしを抱えているレンは物珍しそうに周りに視線を送りながら歩いていた。
「……あんたもこの学校の生徒でしょうが、なんで保健室も知らないのよ?」
「編入試験やら何やらで何回か来たけど、この学校の生徒としての登校は今日が初」
 通りでこいつの噂を一つも聞かなかったわけだ……
 中身はアレとはいえ、見た目だけならレンはかなりハイレベルな方だと思う。これだけの美形なら、別の学年だろうとも噂くらいは聞こえてきてもいいくらいだ。
 でもまあ…… いつも思うけど、レンって妹である美琴ちゃんがすべての基準のようだから、美琴ちゃんさえ良ければ他はどうでもいいみたいな節があるけど……
 そのことについては、本人はまったく自覚がないようだけどね……
 前を歩いていた美樹がふと足を止め、左手にあるドアに手を掛ける。
「ここよ、保健室は」
「失礼します」
 美樹は率先して保健室のドアを開け、あたしとレンを促す。
「おう、何のようだ? 星野」
 保健室の中から声が返ってくる。
 声だけで美樹であることを言い当てたその人は、レンとそれに抱えられているあたしを見て、校庭にあるどっかのお偉いさんの石像のように固まってしまった。
「……水月(みつき)…… このわたしを差し置いてそんな美男子に『お姫様だっこ』されて見せつけに来るとは、いい度胸じゃないか……?」
 声を低くして呟いたのは、机の上に置かれていたお茶に手をそえて石化している保健の先生である。
「ちっ、違いますよ! これはこいつが勝手に……」
「いや〜 照れますね〜」
 はっはっは、と声を上げて陽気そうな笑いを飛ばすレン。
 ……こ、こいつは!!
 心は怒りに燃えているものの、それに体がついていかない……
 しかし、その笑い声を気に止めず、何故か先生は思案顔になっていた。
 この保健の先生、あたしたちの部活・天文部の顧問も兼任している人で、当然あたしや美樹のことを良く知っている人でもある。
 男勝りな性格と言葉遣いで、男子・女子問わず生徒からは人気が高いものの、同年代の男性教師からは恐怖の的になっていたりする。
 その件については、一例をあげれば説明できるだろう……
 交際を申し出てきたある男性教師がいた。
 ……が、申し出たその日の夜、グラウンドで簀巻きになって転がっているその教師があったという……
 ……まあ、実のところ、いきなり襲いかかったというその男性教師も問題があるのだが、それを捻じ伏せるこの先生は只者ではあるまい……
 『白衣の堕天使』の異名をとるこの先生の名は、北条千鶴先生という。
「……ふむ…… それについての糾弾は後ほど改めて行うことにして…… 君、その暴れ馬をそこのベットの上に寝かしてやってくれ」
 レンにそういうと、手の中にあったお茶を啜る千鶴先生。
「暴れ馬って誰のことですか! ……って、なんで……」
 先生は、何故あたしたちがここに来たかの理由も聞かずにあたしをベットに寝かすように指示したのだ。驚かないほうがおかしい。
「水月…… そんな真っ白い顔していてまだ自覚が無いのか……? 体調が悪いって旗振って歩いているようなものだぞ」
 先生は呆れ顔で、ベットの使用者リストにあたしの名前を記入した。
 あたしを『お姫様だっこ』で抱えていたレンは、そのベットの上にあたしを座らせる。
 千鶴先生はあたしの目の前まで来ると、あたしの額に左手を当て、右手を自分の額に当てその温度を比べる。
「……熱は無いようだな。念のため体温計で正確な体温を測っておくか、星野」
「はいはい」
 美樹はガラス張りの戸棚から体温計を取り出し、先生に手渡す。
 先生は手にとった体温計をあたしの脇の下に入れようとして、ふと手を止める。
「君、回れ右」
 振り向きもせず言い放つ先生。
 もちろん後ろに立っていたレンに対して言った言葉である。
 ……というかレンの奴、千鶴先生の肩越しに覗き込んでいたような気がするけど……
「……はい」
 ロコツに残念そうな声で返事を返すレン。
 ……やっぱり……
「先生、ベットの仕切りを閉じてもらえませんか? こいつ隙を突いて覗く可能性が非常に高いんで……」
 あたしはベットの周りに張っている仕切りを閉じてもらうことにした。
 後ろに美樹という見張り番がいるのだが、美樹のことだからレンが覗き込んでも止めるどころか、一緒に覗き込む可能性もなきにしもあらずである。
「……君、信用無いな……」
「困ったものです」
 肩を竦めてみせるが、その顔には全然困った様子が浮かんでいないレン。
 先生は白い仕切りを閉じると、再び体温計を手に取りあたしの服を脱がす。
「ほれ、脇の下に挟むくらい出来るだろう」
「あっ、はい」
 あたしは手渡された体温計を自分の脇の下に挟むと、両手を膝についておとなしくする。
 3分ほど待つと、脇に挟んだ体温計から計測終了の電子音が鳴る。
「どれ」
 あたしから体温計を受け取った先生は、計測結果が表示されている表示部を覗き込む。
「まあ、平熱だな」
 体温計に表示されていた温度は35度、あたしのいつもの体温だ。
「まあいい、しばらく横になっているんだな」
 そういって先ほど脱がせた制服を手渡す先生。
 あたしはそれを着ると、ベットの上に足を乗せ、横になる。
 先生は横になったあたしの上に白い掛け布団を被せる。
 あたしに布団を被せると、先生は先ほど閉じた白い仕切りを引く。
「まあ、そいうわけだ。水月はわたしが責任を持って寝かしつけておくので、心配しないで教室に戻ってくれたまえ」
「お願いしますね。暴れたりしたら絞めちゃっていいですから」
 美樹は、あたしが動けないことをいいことに好き勝手言ってくれる。
「それじゃ、あきら。また……」
 レンは保健室の戸に手をかけた。
 ……どうでもいいけど、レンに『あきら』って呼ばれるのは虫唾が走るわね……
「うん? ……君、顔を見せたまえ」
「はい?」
 千鶴先生は戸を開けようとしていたレンの顔を覗き込んだ。
「……君もだ。寝ていきなさい」
 そう言って、千鶴先生はあたしが横になっているベットの隣のベットを指差した。
「……僕は、大丈夫ですけど……?」
 不思議そうに首をかしげているレン。
「君も水月と同じく、あんまり自覚がないようだな…… まあいい、担任の先生にはわたしから話をしておく、さっさと寝なさい」
 千鶴先生は、机の上に置いたままになっていたベットの使用者リストにレンの名前を記述しようとしたが、そこで手を止めてレンを振り返った。
「……君、名前は?」
「え、えっと…… 東陽……煉夜ですけど……」
「東陽はともかく、『れんや』とはどう書くのだ?」
 千鶴先生から近くにあったメモ用紙を手渡され、レンは半ば強引に自分の名前を書かされた。
 レンが名前を書き終えると、そのメモを見ながら千鶴先生はリストにレンの名前を書き加えている。
「煉獄の煉に夜か…… なかなか物々しい名前を付ける親もいるものだな……」
 妙な感心をしながら、千鶴先生はレンの名前が書き込まれたリストから手を離した。
 レンは未だに納得いかないような顔をしているが、渋々あたしの隣のベットに腰を降ろした。
「そんなに調子が悪い顔をしているんですか? 僕は……」
 ベットに潜りこみ、腰まで掛け布団をかけたレンが問い掛けた。
「水月ほどではないがな」
 千鶴先生は机から立ち上がり、机の本立てに立てかけてあった分厚い本を一冊手に取ると、レンが寝ているベットの隣に立った。
「東陽君、上半身を起こしてこの本を手にとってみたまえ」
「あっ、はい」
 レンは上半身を起こしたまま、その手渡された本を手にとった。
「えっ……!」
 どさっ、という音を立てて、レンの手に握られた本がベットに落ちた。それを支えていたはずのレンの腕とともに……
 先ほどまであたしを抱えていたはずのレンの腕は、いくら重いとはいえ一冊の本すら支えられないほどに力が弱まっていたのだ。
「というわけだ。しばらくそのままでいれば、水月と同じように倒れたかも知れないぞ」
 ……確かにレンも、昨日の夜は『美琴』の攻撃を激しく受けていたし、その上、防壁を何度も張ったりしていたのだ。
 いくら慣れているからとはいえ、精神的な疲労が無いはずは無い。
 それに、この精神的な疲れは肉体的にも負担を増やすらしく、普段よりも体に対して疲れが急速に襲ってくるような感じがしていた。
「それにしても、なんでお前らそんな倒れるほど疲れきった体しているんだ?」
 夢の世界で精神力を使いすぎて倒れました。
 ……なんて説明しようにも、事が事なので説明しようが無い。
 説明しても理解(わか)ってもらえるとは到底思えないけど……
 しかし、その千鶴先生の言葉に美樹が何故か反応を返した。
 それも何故かウットリとした表情で……
「それはもちろん、めくるめくる熱い夜の営みを二人で……」
   ばずぅぅっっ!!
   ごすぅぅっん!!
「ぺぎゃぁ!?」
 顔面に保健室の固い枕を受け、その反動で後ろにあった壁に後頭部を激突させる美樹。
 その枕は、もちろんあたしが最後の力を振り絞ってぶん投げたものである。
「ここここここの馬鹿美樹ぃぃぃ!! げげげげげげげげげげげげげ下品な想像をするなぁぁぁぁぁ! ぶ、ぶっ倒すぞぉぉぉぉぉ!!」
 あたしは、力の限りを振り絞って美樹に怒声を叩きつけた。
「さ、叫んでから投げて……」
 顔と後頭部を左右の手で抑えたまま、美樹は床に膝をつく。
「おいおい…… 保健室で怪我人出すなよ……」
 呆れながらお茶を啜る千鶴先生。
「まあ、異性交遊は別にかまわんが、不純なのはまだ早いぞ。二人とも将来のことを考えてだな……」
 大真面目な顔をして、諭すように言う先生。
「この大馬鹿の戯言を真に受けないでくださいぃ……」
 さすがに叫ぶ力もなくなってきた……
 あたしは枕が無くなったベットの上に頭を降ろした。
「まあ、そのあたりの話はまた今度にして、今はゆっくりとしているんだな」
「……後でも話は出てきません……」
「え、そうなの?」
 唐突に声を上げるレン。
「てっきり続きがあるのかと……」
 もはや他人事のように言ってくれるレン。
「……い、いい加減に……!」
 次の言葉を発する前に、あたしの腕はふっと支える力を失って、あたしの身体はベットの上で横倒れになった。
「あ、晶!」
 美樹の声が耳に届いたのを最後に、あたしの意識は混濁し、真っ暗な闇の中に呑まれていった……
        ☆
 ……音が聞こえる……
 ぽたぽた、と水滴が水面(みなも)に滴り落ちる音……
 それがあたしの耳のすぐ側で聞こえている。
 そのときのあたしは目を閉じていて、どこにどのようにしているのかすらも分からない。
 あたしは顔を少し上げて、薄っすらと目を開いた。
 あたしの目の前一面は、霧のようにきめ細かい雨が砂の地面に向かって静に降り注いでいた。
 先ほどの水面を叩く音は、あたしが寄りかかっている木の葉から滑り落ちた水滴が水溜りに垂れた音だった。
(……どこ……?)
 霞がかかったようにはっきりしない意識で、あたしはその場所を確かめようとした。
 軽く首を左右に振り、周囲に視線を広げると見覚えのある器具たちが目についた。
(……砂場……ブランコ……滑り台……公園……?)
 それら遊戯具の側には、今は誰もいない。
 ただ、雨に濡れた姿で佇んでいる。
 平日でも晴れていれば、子供の笑い声や主婦の話し声が聞こえてきてもおかしくはない。
 どこか見知らぬ場所に置いていかれたような寂しさがその場にはあった。
 そして、あたしはその公園を見渡せる場所にある木に寄りかかっていた。
 葉がふんだんに生い茂っているこの木は、幹に寄りかかるあたしを雨から守っていた。
「……のぞみヶ丘の公園……?」
 あたしは声に出して呟いていた。
 公園の各所に配置された見覚えのある街灯と、そして寄りかかっている木が、あたしにそれを認識させた。
(……どうしてこんなところに……)
 この『のぞみヶ丘の公園』はあたしの家の近所にある比較的大きな公園である。
 早朝にはラジオ体操をするおじいさんやおばあさん、昼には遊戯具で遊ぶ子供たちとその母親たち……
 残念ながらイマイチぱっとしないためか、デートスポットにはなりえていないけど……
 でも、そんなありふれた、どこにでもあるような普通の公園であることは間違い無い。
 あたしも小さい頃、お母さんに連れられて、ここでよく遊んでいた。
 あたしは先ほどよりも広い角度で左右を見渡した。
(……だれもいない……)
 どんよりとした厚い雲が日差しを遮っているこの雨空では、時間を判断することは出来ない。少なくとも夜ではない、ということがわかるくらいである。
 あたしは振り返り、今まで自分が寄りかかっていた木を見上げる。
 この木は、この公園の中心辺りにあることと最も背の高い木のため、頭一つ突き出た姿がよく目立つ。
 しかし、ここで妙なことに気が付いた。
 確かに大きい木なのだが、今のあたしの身長ならば一つ目の枝に手が届くくらいの高さにあったはずなのだが……
 今見ると、その枝は遠く彼方にあるように見える。
 低い枝が切り落とされていたわけではない、それなのに手はまったく届かず、垂れた枝先の葉にすら掠らせることも出来なかった。
 あたしは、右の腕を思いっきり伸ばしてその枝をつかんでみるようなしぐさをしてみた。
「……え……?」
 このときになってようやくあたしは先ほどからの違和感の理由(わけ)が分かった。
(……腕が…… 短い……?)
 改めてその腕を見ると、腕だけではなくその手のひらも、今のあたしの年齢らしからぬ大きさにまで縮んでいた。
 わたしはそのときになって、ようやく自分の首から下の身体を見下ろした。
 頭上高くにある枝葉と違ってやたらと近くにある地面。
 高校生であるあたしの服とはとても思えない幼い服装。
 折れそうなほど細い手足……
 それらからすると、今のあたしはどう大きく見積もってもせいぜい小学生くらいの背格好であった。
(……どうして……?)
 あたしはただ呆然としてその場に立ちつくしてしまった。
 今も霧雨は音も無く降り続けている。
 音すら響かせぬ雨にさらされた公園の空気だけがあたしを包み込んでいる。
 あたしはその静けさに身を任せるように、再び木の幹にその身を預けた。
   ばしゃ、ばしゃ……
 突然響いた水面を割る音が、辺りを覆っていた静寂を打ち消した。
 ばしゃ、ばしゃと水溜りを踏みつける音を立てて、誰かが公園の入り口の方からこの木に向かって駆け寄って来るようだった。
(……だれ……)
 あたしはうつろになっていた瞳をそちらに向けて、視界の中にその姿を収めた。
 辺りを覆う霧雨を受け、満遍なく小さな水玉を並べた空色の傘……
 それをまだ幼い肩で揺らしていたのは、小さな男の子だった。
 その男の子はあたしが立つこの木を目指して、まっすぐに駆け寄ってくる。
 途中に大きな水溜りがあってもそれをものともせず、小さな水しぶきを上げながら水溜りを駆け抜ける。
 その両足に履かれた黄色い長靴は既にその役目を果たせず、靴の中はびっしょりに濡れていることだろう。
 あたしの目の前まで辿り着いた男の子は、小さな肩を上下に弾ませて、切らしていた息を取り戻そうとしている。
「……だ……」
 誰? と言葉を繋げようとしたあたしの目の前で、突然男の子があたしに向けて崩れるように倒れてきた。
 地面に向けて倒れ行くその姿は、思いのほかゆっくりにみえた。
「……あ!」
 あたしはとっさに幹から体を離して、倒れかかった男の子の上半身を両腕で受け止めた。
 今のあたしの身の丈はその男の子と大差無い。軽々とはいかなかったものの地面に倒れるのを防ぐことはできた。
「……君」
 あたしは名を呟いた。
 その時、呟いたのはあたしであって『あたし』ではない夢の中のあたしだったと思う……
 多分、その子の名前だったのかも知れない……
 でも、そのときのあたしには『君』の部分しか知ることが出来なかった。
        ☆
 夢を見た……
 ……久しぶりに『自分の夢』をみたような気がする……
 この二日間、『美琴』の夢の中にいたものね。
 ……でも……
「変な夢……」
 普通なら夢で自分の格好で驚くことなど無いはずだけど。
 夢の中ではあったものをありのままで受け止める、それが『夢』のはずなのに。
 だから、自分の身長が縮んでいたりしても驚いたりするはずが無い……
 自分でありながら、自分でない自分と同居した視点で夢を見ていた……たぶんそんな感じだった……
 あたしはベットから身を起こした。
 白地の薄手の掛け布団があたしの上からずり落ち、あたしの制服が現れる。
(……そっか……)
 保健室で休んでいたんだっけ……
 ベットの周りは白い仕切りで覆われている。
 あたしが気を失ったように眠ってしまったあとに、千鶴先生か美樹が閉めてくれたのかな……?
 仕切りに映る影からは、いつも千鶴先生が座っている保健室の机には人影が見えない。美樹は教室へ行ったのだろうけど、千鶴先生は何処に行ったのだろう……?
「……それにしても……」
 あたしは夢の中で会った男の子を思い出した。
 まだ細く短い足を目一杯に広げて、木の幹にもたれるあたしの方へと走って来た男の子……
(あの男の子……誰だったんだろう……?)
「起きたか?」
 不意にベットを囲っていた仕切りの外から声がかかった。
 物思いにふけっていたあたしが慌てて振り向くと、となりのベットに同じように身を起こした姿の影が白色の仕切りに黒く浮かび上がっていた。
「レン……」
 そういえば、レンも千鶴先生に強引に寝かされたのよね。
「どうだ? 体の調子は?」
 あたしは軽く腕を振り上げてみたり、まだ布団を被っている足に力を入れてみる。
 あたしの手首やひざは、普段通り思ったようにスムーズに動いた。
 今朝のような、しっかりと意識しなければ手を振って走ることもままならない状態とは明らかに違った。
「……ん、だいぶ良くなったみたい……」
 あたしの言葉に安堵したような溜息が、仕切りの向こう側から微かに聞こえた。
「……悪いな……迷惑ばかりかけて……」
 レンはトーンを落とした声で謝る。
 いつもとは違う神妙な声に、あたしはかすかに驚いた。
 昨日、病院で話を聞かされた時もそうだったけど、こいつってホント性格がわからないわね……
 いつもは人をからかうようなことばかりしているのに、急に神妙な態度をとりだしたりするのだ。
「べつにいいわよ。ここまで関わっていて、いまさらグチグチ言っていてもしょうがないわ」
 昨日の夢の中で美琴ちゃんに会ったとき、覚悟を決めていたあたしは即答した。
「……ありがとう」
 微笑をこめたお礼を述べるレン。
「それはともかく……今何時間目なんだろう?」
 あたしはベットを囲っている白布の仕切りを少しだけ開けて、壁に引っ掛けてある丸時計を見上げた。
 一二時半……ちょうどお昼休みね。
 あたしが仕切りに開けた隙間から顔を覗かせていると、どこかに行っていた千鶴先生が保健室の戸を開けて入ってきた。
「目が覚めたか、水月」
 顔を出しているあたしに気が付いた先生は、ベットを囲っていた仕切りを畳み始める。
「気分はどうだ?」
「大丈夫です。かなりよくなりました」
 あたしはベットの上から頭を軽く下げる。
「そうか、向こうの君……東陽……だったな、そっちはどうだ?」
 首だけをレンがいるベットの方に向けて尋ねる先生。
「僕も大丈夫です。ありがとうございました」
 レンが、まだベットを囲ったままになっている仕切りの中から返事を返した。
「そうか、さっき職員室に行ってきたところだ。今日のテストの件はわたしが話をつけておいた。後日再テストとなってしまったが、そのテストで規定点を取れば補習などは行なわれないそうだ」
「そうなんですか!?」
 再テストで補習無しという好条件に、あたしは驚きとも喜びともつかぬ声を上げてしまった。
 今日受ける予定だったテストの担当教師は、生徒をいじめて楽しんでいる節があるような嫌な教師だったはずなのだ。
 そんな陰険教師が、いくら病気という明確な理由があるとはいえ、再テストで合格すれば補習無し、などという破格の条件を出すはずは無いのだけれども……
 あたしは疑いの眼差しを千鶴先生に向けた。
「……先生……また何かしませんでしたか?」
「わたしは何もしていないぞ。まあ、あまりにもその教師が渋るものだから、思わず(・・・)その教師の湯飲みを眼前で握りつぶしてしまったがな」
 涼しい顔をして、口元に軽い笑みを浮かべる千鶴先生。
「あは……あはははは……、またやったんですね……」
 その笑みに対して、あたしは引きつった笑いを返すしかなかった。
 ……その教師の青ざめた顔が目に浮かぶわ……
 胸の内でその教師に手を合わせるあたし。
 千鶴先生は壁に埋め込まれている電灯のスイッチに手を触れ、天井に埋め込まれている蛍光灯を灯す。
 窓からの日差しだけで薄暗かった保健室が、白い蛍光灯の光で満ちた。
「さて……ふたりとも、ちょうど昼食の時間だ。食欲はちゃんとあるか?」
 そういえば、また朝ご飯食べてこなかったんだっけ……
 あたしは自分のお腹を軽く抑えてみた。
 あたしのお腹からは、今にも虫が悲鳴を上げそうな感じが伝わってきた。
 鳴きださないうちに何か食べたほうがよさそうね……
「食欲はあるみたいです」
「僕も食べられそうですね」
 あたしとレンはそれぞれ千鶴先生に返事を返した。
「教室に戻ってからでは、食事を取る暇も無いだろう。ここに購買で買ってきた食べ物がある。適当に見繕って食べるといい」
 千鶴先生は、手に下げていた無地の白いビニール袋を持ち上げて、あたしたちの前に差し出した。
 おにぎりやサンドイッチが見え隠れしている袋の膨らみ具合から、3人分の食事はあるだろう。
 ちなみに、購買で売られているものはパンやおにぎりなどの軽食が中心で、弁当などは扱っていない。
 購買部の大きさが、私立のマンモス校でも無い、どこにでもあるような公立学校の規模からすれば、妥当な品揃えだと思うけどね。
 ついでに言うと、購買部でこの体たらくでは、学食などの給食施設も望むべくも無い。
 そのため、もっぱらここの生徒の昼食は弁当持参となる。
 昨日今日のあたしのように、弁当を持ち合わせていない生徒が利用するだけのことを考えれば、購買で売られているものが簡易なものになるのも納得できるけど……
 育ち盛りの高校生にこれではあんまりな気がしなくも無い。
 まあ、それはともかく…… あたしは千鶴先生が手渡してきたその昼食の入ったビニール袋を受け取る。
 ずっしりとした意外な重みを感じ、その重みに耐え切れなかったあたしの腕はベットの上に袋を軽く落としてしまった。
 軽々と持っていた千鶴先生を見ていたので、もっと軽いものだと思っていたのに……
 ……千鶴先生とケンカしたらただじゃ済まないわけよね……
「何からなにまで、ありがとうございます」
 レンはベットから降りると、千鶴先生に向かって再びお礼を言う。
 それにしてもコイツ、本当に相手によってしゃべり方が違うわね……
 あたしと居るときには、こんなきっちりとしたですます調なんて聞いた覚えは無いわよ。
「何を言う。数少ない大切なうちの部員、これくらいはさせてもらって当然だ」
 至極当然と言った口ぶりで胸を張る千鶴先生。
「……はぁ……?」
 レンは何のことかよくわからず、首を傾げている。
 千鶴先生は机の引出しから一通の茶封筒を取り出して、わたしたちの目の前に差し出した。
 ……これってどこかで見たことがあるような……?
 あたしはその封筒を受け取り、中から二つ折りになっている便箋ほどの大きさの紙を取り出した。
 そこの中に入っていたのは、
『入部届』
 と書かれた書類であった……
 これって、昨日美樹がレンに差し出した書類と同じものよね……?
 天文部顧問である千鶴先生が入部届けを持っていること自体については、不思議に思うことがあるわけではない。
 問題にすべき点は、その入部届けの氏名欄には『東陽煉夜』の名が既に記入されているということだ。
「……いつのまに書いたの? レン」
 わたしが知る限り、レンが美樹にこの書類を渡すチャンスは無かったはずなんだけど……
 あたしはその書類を手にしたままレンに振り向いたが、当のレンも首を傾げているところだった。
「……俺が受け取った入部届はまだここにあるよ……」
 レンは自分の制服の内ポケットから、あたしが手にしている茶封筒と同じものを取り出した。
 ……レンが預かり知らぬところで、既に千鶴先生に届けられていた天文部への入部届け……
 となれば、考えうる可能性はただ一つ……
「これを持ってきたのは、もしかしなくても美樹……ですよね……?」
「昼休みが始まってすぐに星野が持ってきたぞ」
 軽く頷く先生。
 ……やっぱり……
 驚くべきことは、その問題の入部届けには氏名の他に住所・電話番号等も記載されており、レンに確認したところ正確なものであった。
 ご丁寧にも『東陽』の印鑑まで押してある。
 あたしは思わず、その入部届けを握り潰してしまった。
「あ、あの馬鹿美樹ぃぃ!! いったい何考えているのよ! 有印私文書の偽造は犯罪よ! 犯罪!」
 あたしはベットの上から保健室の外まで響き渡るほどの怒鳴り声を上げる。
「そう興奮するな水月、星野も悪気があってやったわけじゃないだろう」
「悪気が有る無しの問題じゃありません!」
 力いっぱい叫んだため、軽くめまいを覚えてベットに再び突っ伏しそうになるあたし。
 あの美樹のことだ、部員確保のためには手段を選ぶはずも無い。
 レンは中身はともかく優男風の容姿の割に天体系に詳しいときている。
 美樹のことだから容姿は二の次だろうが、のどから手が出るほどの人材であろう。
「それにしても、美樹のヤツ、一体どうやって調べてきたんだろう……」
 あたしは溜息をついて、あたしに握りつぶされてくしゃくしゃになってしまった入部届けを茶封筒に戻し、レンに手渡そうとした。
「はい、返すわ」
 当のレンも突拍子も無い傍若無人な行動をしている美樹にあっけにとられているようだったが、あたしが差し出した入部届けをそのまま千鶴先生に渡してしまった。
「レン!?」
「手間が省けていいよ。どっちにしろ入部希望ではあったからね」
「本当にいいのか?」
 入部届けが美樹の偽造であったことがバレた以上、千鶴先生も無理に勧誘する気は無いようね。
「はい、これからよろしくお願いします」
 レンは再び千鶴先生に頭を下げる。
「分かった。こちらこそよろしく、東陽」
 千鶴先生はレンの肩をぽんぽんと叩いた。
「……というわけで、よろしくな、あきら」
 とあたしの方を向いて、軽くウィンクなんぞかましてくれるレン。
 ……こいつがこういうキザことをしても、いちいち様になるのが気に食わないわね……
「それじゃ、食事を摂って教室に戻れ」
 千鶴先生はあたしが寝ていたベットの上にあるビニール袋から菓子パンやおにぎり、牛乳を取り出して机の上に並べ始めた。
「はい」
 あたしとレンは千鶴先生が机に並べた食べ物を手に取り、昼休みが終わる十分前まで食事をとることになった。
        ☆
 あたしとレンが保健室のドアをくぐると、廊下の壁に整然と並んでいるガラス窓は暖かな春の陽気をリノリウムの床に取り込んでいた。
「ふぅ、食べた食べた……」
 朝から何も食べていなかったこともあり、あたしはおにぎり3個・クリームパン・メロンパンを食していた。
「結構食べるな……あきら……」
 あたしの後ろをついて来るレンが軽い驚きを滲ませ、ぼやくように呟いている。
「育ち盛りの年頃なんだからしょうがないでしょ」
 あたしの反論にレンは自分の胸を抑え、
「その割には、育つところがあまり育ってい……!?」
 そこでレンの言葉が止まった。
 あたしの右の拳が、レンの喉元3ミリメートルの空間を残して止まっていたからである。
「それ以上言葉をつないだら、このまま振り抜くけどいい?」
 レンはそれほどあたしとの身長さがあるわけではない、このまま振り抜けばただでは済むまい。
「こ……これ以上は言わない……」
 あたしの拳に顎をカクカク当てながら呟くレン。
「よろしい。今度からそのことについては絶対に触れないこと! いいわね!」
 廊下のガラス窓を振るわせるような声で言い聞かせる。
「は、はい!」
 そりゃ美樹に比べたら小さいでしょうけど、平均はあるはずなのよ!
 それにしても、あれだけ整った顔立ちに黒髪ロングで胸も大きければ、美樹に人が寄ってくるのも分かる……
 ……あれでヲタクな趣味じゃなければ言うこと無いんだろうけど……
 自他共に認める『ヲタク』少女・星野美樹……
 たとえば美樹が一人図書館で静かに本を読んでいるという光景があったとしよう。
 これを見ただけで、世の男どもは物静かな文学少女というイメージを自分の中に勝手に作り上げてしまう。
 ある意味偏見だが、男という存在なんてそんなものである。
 ……が、その本の内容は大抵、ファンタジーノベルと呼ばれるジャンルの文庫本か、果てはギャグ漫画だったりするのはいかにも美樹らしい。
 そのことを大抵はしばらく経って知ることになるので、日増しに美化・純化された自分自身の中にあった『美樹』のイメージと実際の『美樹』とのギャップにその理想はあえなく撃ち砕かれることになる。
 ……存在そのものが、罪作りな奴である。
 我が友人ながら早めに抹殺しておいたほうが哀れな世の男ども――いや、女性も含めて――のためになるかもしれない……と常々思ったりもするが……
 昼休みが終わりに近づいたため、廊下に出ていた生徒たちが移動をはじめている。
 教室に戻る生徒、特別教室・体育館に行く者……それぞれ思い思いの場所に散ってゆく。
「……っと、職員室に行かないと……」
 レンがはっとようやく何かを思い出したかの様に反射的に呟いていた。
「もう時間ないわよ、今から職員室に何の用があるのよ」
「……俺、まだ自分のクラス知らない……」
「はぁ!?」
 あたしは間の抜けた声で驚いた。
「……朝、今日が生徒としては初めての登校だって言っただろう。まだクラスがどこになるのか聞いていないんだ」
 そういえばそんなこと言っていたわね。
「職員室の場所はわかる?」
「この前、手続きに来た時に職員室に行ったから大体わかるよ」
 そういって保健室から来た道を引き返し始めるレン。
 職員室は保健室から見て教室棟がある方角とは反対側にあるからだ。
「迷子にならないようにね」
「まったく知らない場所じゃなければ大丈夫だ。また、放課後にでも……」
 あたしに片手を挙げて去ってゆくレン。
 あたしはその姿が教室移動の生徒達に紛れたのを見届け、後ろを振り返った。
「やっほ〜 晶」
「ぬぁぁっ!? み、美樹! いきなりそのアホ面晒すんじゃなぁい!!」
 振り向いたあたしのすぐ目の前、本当に数センチのところに、世の健全な男子を奈落の底に突き落とす、『抹殺対象』こと星野美樹のにこやかな顔が唐突に出現した。
 間髪を入れずにあたしは美樹の首根っこをひっ捕まえた。
「ち、ちょっと、く、苦しい……!」
「美樹! あなた、レンの入部届偽造したでしょう! いくらなんでもやりすぎよ!」
 あたしは美樹の耳目掛けて怒鳴り声を叩きつける。
「ぎ、偽造だなんて人聞きの悪い……ちょっと名前を借りただけよ……」
 あたしの怒鳴り声に耳を塞ぎながら臆面もなくのたまう、『天文部部長』星野美樹。
「本人に無断で使用している時点でじゅーぶん偽造よ!」
 あたしは、美樹の首を前後に激しく振り回しながら説教をする。
「大体、どこからレンの個人情報を持ってきたのよ!」
 レンが驚くほどに、正確な住所や電話番号をいったいどこから手に入れてきたのだ? 美樹は。
「レン君のかばんに名札が付いていたのよ。それを見て覚えただけ……」
「…………」
 ……情報源は意外に単純なところであった……
「印鑑は?」
「購買で……」
 そういえば購買では三文判が売られていたっけ……
「いいじゃない、結局レン君了承したんでしょう? 手間省けていいじゃないの」
 レンと同じようなことを平然と言う美樹。
 ……こいつ……ぜんぜん反省してないな……
 いつまでも首をつかんでいても、まわりの生徒から怪しまれるだけなので、あたしは手を美樹から離した。
「レン君が入部断るわけないもんね……」
 首を開放された美樹は、あたしの顔を見て、何故かため息混じりに言う。
「? どういうことよ……?」
 あたしは意味ありげな顔をしている美樹を訝しげな表情で覗き込んだ。
「べっつに〜」
 いかにも別ではない、と言わんばかりの口調ではぐらかす美樹。
 呆れた顔にも見えるのが気にかかるけど……
「それよりも、レン君、どこ行ったの?」
「職員室よ。まだ自分のクラスが分からないんだって」
「ふ〜ん……」
 かなり適当な相槌を打つ美樹。
 昼休みの終わりももう間もない。あたしと美樹は、階段を登り三階にある自分たちの教室に向かって歩き始めた。
「そういえば、この前貸した文庫本読んだ?」
 教室の入り口で美樹が問い掛けてきた。
「文庫本って……『銀の髪』のこと?」
「うん」
「えっと、確か5巻の途中まで読んだと思うけど……」
 ――銀の髪――
 オーソドックスなライトファンタジー小説で、主人公・武器鍛冶ウィル=ザードとその仲間たちの冒険譚を第一部から第三部に渡って描かれている、そこそこ長編の物語である。
 一・二部は殆ど続きで、三部は主人公以外の登場人物をガラリと入れ替えて始まる……と美樹が言っていたっけ。
 銀の髪は貸した張本人である美樹のお気に入りの小説で、あたしに半強制的に第一部から第二部までの本を纏めて渡してきた。
 ……「貸す」と美樹が言った翌日の朝、学校に来たらあたしの机の上に大量の文庫本が山積みになっているのには絶句したけど……
 中学時代から付き合いがある美樹に今まで勧められまくったお陰で、あたしもこの系統の本を読むようにはなっていたし、こういう小説も嫌いではなかったので美樹から貸し出された本くらいは読むようになっていた。
 ちなみに現在は第三部が連載中とのことである。
 ……銀の髪……そういえば……

 ――青く澄み渡っていた空の色を透け通らせるほど薄く儚げで、淡い白色の光を湛えた翼……
 ――その見た目にはそぐわない底知れぬほどの強大な力を感じさせ、また実際にその力によって、あの『命』と名乗った少女を退けた翼……

 あたしは夢の中で自らが生み出した(……と思う)あの光の翼を思い出していた。
「『銀の髪』に光で出来た翼って……どこかで出てきたわよね……?」
「出てくるよ〜 実際に主人公たちが使うのは第二部の序盤――第七巻だけど、前振り話なら第一部にあるよ。光翼(ライトニングフェザー)・カタリスト」
 あたしがこんな話題を振って来るのが珍しいのか、美樹は少し首を傾げたが、素直に答えを返してきた。
 周囲に存在する万物の『存在するためにある力』を集約し、己の力に変える光翼・カタリスト。
 この翼は空を翔けるだけでなく、世界と世界を渡る力を秘めている……らしい……
 第一部までしか読んでいないあたしには、まだ良くわからないけどね。
 昨晩の夢の中で、あの翼があたしの背に現れた時、確かにあたしの力は威力が増していた。
 でも、あたしは光翼(カタリスト)の正確な想像をしたわけではなし、まだ第二部を読んでいなかったのだから正確なイメージを掴めるはずも無かったはず。
 あの時のあたしは、とっさに思い浮かんだイメージを言葉に乗せただけだ。
 『……まさか…… あれだけの想像で……』
 あの時、レンも目を見開いて驚いていた。
 レンが力を使う時は、呪文を唱えることによって想像力を増させ、それによって力を発現させていた。
 他人の夢の中では思うように想像を具現化出来ない。呪文の詠唱や身振りを行うことによって想像をより強固にしなければ、何も生まれることは無い……そうレンは言っていた……
 でも、あの時にあたしは最後の『紅星滅殺(ルビーライトイレーザー)』を除けば、呪文は唱えなくても力を現すことが出来た。
 「紅星滅殺(ルビーライトイレーザー)……か……」
 「ん? アイリスの魔法がどうかしたの?」
 美樹はあたしが思わず呟いた言葉を聞きつけていた。
 あたしが寝る前に読んでいたのは、銀の髪第一部の最終巻の途中、美樹が言ったアイリス――主要登場人物の一人――が魔法を放つシーンのところだった。
 ……って……!?
 そうだ……あの夢の世界であたしとレンが唱えた呪文や放った魔法はどれもこれも、『銀の髪』に出てきた物ばかりだ。
 カタリスト・紅星滅殺|ルビーライトイレーザー]だけでなく、レンが使った防御魔法・[風霊防除(エアリアルシールド)はやはり登場人物ユークリッド=クライドの魔法だし、「斬殺の光刃」「瞬殺の雷光」もそれぞれセリスとレガート=クラウドの攻撃魔法だったはず……
 レンの方は分からないけど、あたしの想像に関して言えばとっさに思いついたにしても、『銀の髪』に限定されて過ぎている。
 ……どいうこと……?
「……?」
 難しい顔をして思案しているあたしを、美樹が不思議そうな顔をして見ていた。
「あ、晶だ!!」
 あたしの思考を遮るように、教室の中から誰かがあたしの名を叫ぶように呼んだ。
「……えっ?」
 唐突に声を掛けられたため、思わず慌てて教室のドアをくぐってしまった。
 ……思えばこれが間違いであった……
「朝、あなたを抱きかかえていたあの人だれなの!?」
「美少年に抱えられて登校したって本当なの!?」
「抱えられている晶が妙にしおらしくしているのを見たんだけど……」
「なんですって! ずるいわよ、あきらぁ〜!!」
 ……ぐはぁ!? やっぱりそう来たかぁ!?
 教室の入り口に唖然として立っているあたしに向け、怒声に罵声に怨み声・妬み声などなど……が一斉射撃で打ち放たれまくった。
 あたしに砲身の軸線を向けているその砲塔は、噂の伝達及び拡散速度はご近所の主婦とタメを張るほどの超高速伝送速度を誇る女子生徒である。
 あぅぅぅぅ…… せめて次の授業の先生が来るまで教室に入らなければ良かった……
 心底後悔しているあたしの後ろでは、美樹があたしに背を向けて肩を震わせていた。
 当然だが怒りに身を震わせているわけではない。大声で笑いを上げてしまうのを全力で堪えているだけだ!
「くぉらぁ!! 美樹!! 笑いを堪えている場合じゃ無いわよ! この事態はあんたのせいでもあるんだから何とかしなさい!」
 あたしは美樹の両肩を引っつかみ、集中砲火から身を守る盾代わりに教室の入り口に突き立てた。
 噂の拡散が早い段階であったためか、要らぬ尾ひれや背びれが付いていないようなだけまだいいけど……
 ここで噂を沈静化しておかないと、どんなヒレが付くか分かったものではない。
「えっとね……」
 珍しく殊勝なことに説明を始めようとする美樹。普段ならここで逃げているだろう。
 ……が、このことすらも楽観視し過ぎていたことを思い知らせられることとなった……
「朝、晶を抱えていた人は東陽煉夜という人なんだけど……」
 うんうん。
「確かにかなりハンサムな人なんだけど……」
 レンが美少年といえば美少年なんだろうと思う。美少年と言うには少し年が経ちすぎているような感じがするけどね…… まあ、あくまで中身を知らなければ……の話だけど。
「晶が何故抱えらていたかというと、登校中に倒れて保健室に運びこまれていただけで……」
 あたしがしおらしくしていた……ということについては、単に体が思うように動かなくて、じっとしているしかなかったからだ。
「あと、天文関係にかなり詳しい人で、天文部に入部してもらいました」
 ……さりげなく、天文部の宣伝していないか……美樹……
 レンが入部したとなれば、これまでは一人も希望者がいなかった女子生徒が大挙して押しかけてくる可能性が非常に高い。
 最近いい性格になってきた美樹は、部費確保の為ならなんでもするような気がする……
 美樹の策略の置いておくとしても、ここまでの話は特に問題無し……だったのだが……
「とどのつまり彼は、極最近に晶と付き合い始めた晶の彼……」
   ぼぎゃっ!?
 あたしは間髪入れずに、入り口の柱めがけて美樹の頭を叩きつけた。
「な、なぁぁぁにぃぃぃぃ!! 火にガソリン注ぐようなこといっているのよぉぉぉぉ!!」
 しかし、あたしの美樹への怒声はその後ろから来た第二波によって掻き消された。
『な、なんですってぇぇぇぇ!!』
 ……クラスの女子生徒の大合唱によって……
 その後、内乱状態になったクラスが沈静化するには、授業の始まりまで耐えるという選択肢しか無かった……
 美樹ぃぃぃぃぃぃぃぃ! 本当に死にたいようねぇぇぇぇぇ!!
 授業が始まり、斜め前に座って先程のことなどすっかり忘れ、涼しい顔で授業を受けている美樹を恨みがましい目で睨め付けているあたしがいた。
        ☆
「ひゃぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 日も傾き始めた夕暮れ、天文部の部室。
 ちょうど西向きの窓からは、その夕暮れの日差しが部室の中ほどまで届いていた。
 その窓を除いた壁一面には本棚が並べられており、天文関係の本ばかりではなく物理や地学等の本も交えて所狭しと置かれている。
 ……まあ、中には高さが百八十センチある背の高い本棚にも関わらず、ファンタジー小説とコミックがギッシリと敷き詰められている、なんていう棚も含まれているけどね……
 ちなみに天体望遠鏡などの観測機材などは、必要で無い限りは別室の倉庫に保管している為、ここには置かれてはいない。
 で、天文部部長であり、この部室の主でもある星野美樹はジャイアントスイングによって文字通り大回転していた。
 もちろん、全力でぶん回しているのはこのあたしである。
「あんたがあんなこと言ってくれたお陰でゆっくりクラスに居ることも出来なくなったじゃないの!」
 コマの中心から自分のまわりで回転している美樹に向かって言い放つ。
 あたしは授業が終わると、悠長に帰宅準備をしていた美樹の襟首を引っ張り上げて、クラスから脱兎の如く逃げ出して来た。
 それでも何事も無かったように平然としていた美樹を押し倒して、両足を掴み上げるとそのまま大回転に移行し……今に至るわけである。
「あ〜き〜ら〜も〜ぉ〜や〜め〜てぇ〜〜!!」
 ドップラー効果を交えた叫び声を上げている美樹にあたしは、
「止めてもいいけど、このまま手を離したらどうなるでしょうねぇ〜?」
 冷酷な悪魔の笑みを美樹に突きつけると、美樹の顔が恐怖で歪んだのが垣間見えた。
 ただでさえさほど広くも無い部室である。このままあたしが手を離せば、ノーバウンドで本棚の壁に激突間違い無しである。
「……もう、あること無いこと言わないわよね……?」
 あたしは回転の速度を少し落して、青ざめた顔をしている美樹に冷たく尋ねる。
「あ、あることならいいのぉぉぉぉぉ〜〜〜〜!?」
 減らず口の途中が再び叫び声に戻った。
「まだ回転し足りないようねっ!」
 あたしは再び回転速度を引き上げた。
「ひぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! ご、ごめんなさぁ〜い! もう言わないからやめてぇ〜」
「その言葉、絶対に忘れないように!」
 さすがにあたしも疲れてたし、目もまわってきたので速度を緩めて美樹を床に降ろそうとしたのだが……
  がちゃりっ
 部室のドアが開かれ、誰かが中に入ろうとしていた。
「失礼します、天文部の部室ってここでいいんですか……?」
「って、レン……!?」
 ドアの影から現れたのは、見てくれ倒れの性悪美少年こと東陽煉夜であった。
 驚いたあたしは思わず握っていた美樹の両足を手離してしまった。それもレンの方向を向く直前で……
   ぶんっ!
「えっ!?」
 まるでタイミングを見計らったかのような正確さで、レンのみぞおち目掛けてすっ飛ぶトマホーク……もとい『ミサイル オブ スター』!
 着弾の瞬間、あたしは早々に手を合わせた。
   めきょっ!
 鈍い打撃音が狭い部室に響き渡る。
「これは不慮の事故よ」
 あたしは双方からの非難の声が上がる前に、合掌しながらその一言で状況を片付けた。
「は、入ってきて早々、いきなり何をするんだ……」
 かろうじて起きていられる程度のダメージで済んだレンは、くの字に折れた腹を抑え、膝を折りながらも抗議を呻き声とともに絞り出してきた。
 美樹の方はさすがにダメージが大きかったのか、床でピクピクと身体全体を震わせながら丸太のようになって転がっていた。
 まあ、美樹だから大丈夫でしょう……たぶん……
「だから不慮の事故よ。事故」
 あたしはそういって床に転がっている美樹を引っ張り上げ、手近にあったパイプ椅子の上に座らせる。
 大回転で目を回したことに加えて、脳天に受けた衝撃がクリティカルだったでしょうから、しばらく目を覚ますことは無いでしょうね……
「ところで、レン、あなたなにしに来たの?」
 あたしは至極平然として尋ねる。
「…………はぁ…………」
 レンは、あたしの態度に何故か深い溜息を吐いていたりする。
「もう少し、おとなしい乙女らしく出来ないもんかね……」
「何を言っているの! あたしはじゅーぶん乙女よ!」
 極めて失礼なことをのたまうレンにあたしは声を高くして反論する。
「乙女は親友をジャイアントスイングでほおり投げないよ……」
 心底飽きれ返った口ぶりでレンは肩を竦める。
「この学校の天文部は新入部員に人間ミサイルを打ち込むんだな……」
 痛みが治まったのか、レンはようやく膝を床から離して立ち上がり、平手で膝をパンパンと掃った。
「あ、そういえばレン、うちの部に入部したんだっけ……」
 あたしはポンっと手を打つ。
「まあ、半ば成り行きだったけどね……」
 そういってレンは部室の中を見渡した。
「本棚は沢山あるけど、あんまり天文部って感じしないな……」
「観測機材は倉庫に置いているし、撮影した写真の現像は写真部の暗室間借りしているから、ここはもっぱら資料置き場よ」
「でも撮影した写真くらい部室に飾ってあっても良さそうだけど……」
 そう言ったレンに向けてあたしは、上を指差して見せた。
「? 上?」
 レンが上を見上げると、「おっ」と軽く驚きの声を上げた。
「なるほど……天井に張っているのか……」
 レンの視線の先、部室の天井一面にこれまで撮影した天体写真の数々が並べられていた。
 これはこれらの天体写真のほとんどを撮影した美樹の趣味なのだが、元々この部室にはこの様に本棚が壁のすべての面を埋め尽くしていたため、壁に飾ることは出来なかった。
 そこで美樹が入部してからは、天井に張るようにしたのだ。
 空を見上げるように椅子に座れば、星々の写真を眺められる……というこのアイデア、あたしが部室に初めて来た時はちょっと感動ものだったわね。
「せっかく初めて部室に来たんだから、ちょっと眺めていく?」
 あたしはそう言って本棚の側板に畳んで立てかけてあったパイプ椅子をレンに差し出した。
「いや、あんまり時間ないからまた今度にするよ」
 時間が無い……あっ、そうか……
「美琴ちゃんのお見舞い……今日も行くのね……?」
 レンと美琴ちゃんの両親は仕事の関係でこちらに来られていない、そしてまだ引っ越してきたばかりで友人も居ないであろう美琴ちゃんはいつもあの病室で一人きりで居るのだ。
 レンが見舞いに行かなければ、会うのは担当医の先生と看護師さんくらいになってしまう。
 どちらにせよ、このシスターコンプレックスの塊みたいなレンのことである、元より毎日欠かさず行っているに違いないでしょうけどね。
「当然だ。俺が行かなければ誰が行く」
 無駄に力いっぱい首を縦に振るレン。
「……シスコン……」
「なんとでも言え」
 もはや諦めた感があるのだろう。あたしのイヤミにも仏頂面で返してきた。
「じゃ、あたしも付き合うか……」
 そう言ってあたしは、部室の真中に置かれている大机の上に載せておいた学生カバンを手に取った。
「またデートするの?」
「おわっ!?」
 唐突にかかった声に飛び上がるあたし。
「み、美樹! 何の前触れもないのに、湧いて復活するんじゃなぁい!!」
「そんなゾンビかグールみたいなこと言わないでよ……」
 口を尖らせて言う美樹だが、例えがゾンビというのがいかにも美樹らしい。
「そんなことより、『また』とは何よ! またとは!」
 あたしの抗議の声にも美樹は、
「昨日だってしたじゃない?」
 ニヤニヤと意地の悪い薄笑いを浮かべていた。
「あ、あれは病院にお見舞いに行っただけよ!」
「お見舞い? 誰の?」
 首をかしげる美樹。
「レンの妹さんよ」
 あたしの言葉にレンが後ろで頷いていた。
「なるほど……」
 美樹はさも納得したように首を何度も縦に振った。
「……もう御家族にお目通りをしたわけね……」
「そこでまだ茶化すか!? おのれはぁぁぁ〜〜!!」
   ごすっ!?
 鈍い打撃音を響かせたあたしの鉄肘は、美樹の側頭部を貫いていた。
「あぅ……」
 テンプルに強烈な一撃を食らった美樹は、ふらふらとよろめいた後、またしてもパイプ椅子の上に崩れ落ちた。
「毎度の事ながら、手加減しないなぁ…… あきらは……」
 傍で一部始終を見ているレンがしみじみ呟いている。
「美樹だからいいのよ!」
 事も無げに言い捨てるあたし。
 このくらいでどうにかなるような柔な人間ではない、美樹は。
「……ま、まあ、そうだけどね……」
 こめかみを抑えてヨロヨロと立ち上がる美樹。
 ……微妙に復活が早くなってきていない? ……美樹……
 しばらく頭を抑えていたが、ようやく痛みが引いてきたのか、美樹はピンっと背筋を伸ばしてレンに向き直った。
「妹さんのお見舞いに行くんじゃ、あんまり引き止めるわけに行かないけど、とりあえず、改めてご挨拶だけでもしましょうか?」
 そう言うと、美樹は何度もお世話になっているパイプ椅子から立ち上がったまま、レンに向かって軽く微笑みかけた。
「天文部へようこそ! わたしは部長の星野美樹です。改めてよろしくね」
 軽く挨拶を終えた美樹が、隣に立っていたあたしの腕を肘で突っついてきた。
「あ、あたしも挨拶するの!?」
「あたりまえよ」
 当然といった面持ちの美樹に向けてあたしは一つため息を吐くと、改めてレンのほうを向いた。
「……いちおう副部長の水月晶」
「ちなみに、会計その他はいちおーいるんだけど、みんな幽霊君達だからあたしが代わりにやっているのよ」
 そんな情けない話を明るい口ぶりで言わないでよ……美樹……
「今度時間がある時に、部室の使い方とか活動の詳しい内容を説明するからね」
「……それにしても、棚の中にはまったく天文とは関係ない本ばかり並べられている本棚があるんですけど……」
 再び部室内に視線を巡らせていたレンが、一つの本棚を見上げて呟いていた。
 その入り口付近にあった本棚は、部長である美樹専用本棚と化した、通称『幻想棚』である。
 ちなみに命名はあたしじゃない。極稀に部活に来ていた幽霊部員――美樹に幻滅した男子部員――である。
 本棚に置かれている本がファンタジー小説であるからのファンタジー=幻想ではなく、美樹という存在が幻想である……という意味らしい……
 その男子生徒の溢れんばかりの悲哀を感じられるネーミングではあるわね。
「わたしの趣味ですよ。そうそう、この部に入ったからにはその棚の本を読破していただかないとね」
 あっけらかんと滅茶苦茶なことを言う美樹。まあ、これはレンに対してだけでなく、今まで入ってきた部員のどれに対しても同じ対応をしてきたのだけどね。
 レンはその棚から一冊の文庫本を手にとった。
「『銀の髪』なら既に出版されているものはすべて読んでいますよ」
「おおっ! 立派! 立派!!」
 ……おいおい…… そんな基準で立派なのか? 美樹。
「……それより、病院行かなくていいの……?」
 あたしは呆れた声でレンと美樹を諌めた。
 ここからその病院までの距離は、昨日レンと会った駅前よりは近いけど、それでも歩いて行くことも考えれば、あまり悠長にしている時間は無いはず。
 あたしの言葉に慌てて腕に巻いていた腕時計に視線を落すレン。
「おっと、もう学校を出ないといけない時間だった…… 部長さんすいません、後日また来ます」
 軽くお辞儀をするレンに美樹は「わかったわ」と返事を返した。
「それじゃ、さっさと行きましょう」
 あたしはレンを促し、学生鞄を片手にもって部室のドアを開けた。
「あ、わたしも後から行ってもいい?」
「なにをしに行くのよ……」
 あたしはドアのノブを手にしたまま、訝しげな視線を美樹に向ける。
「なにって、お見舞いに決まっているでしょ、レン君の妹さんの」
 さも当然といった口ぶりであるが、興味本位のただの野次馬に過ぎないのだが……
「どうするの?」
 あたしはレンに目を向け、返事を待つ。
「別に構いませんよ」
 こともなげに即座に返事を返してくるレン。
「昨日、レン君が指差していた丘の上の病院でいいのよね?」
「そうです。病院の受付で『東陽美琴』でお願いすれば案内してもらえるはずです」
「OK。それじゃまた病院で」
 そう言って美樹はパイプ椅子に座り、机の上に書類を広げ始めた。
 そっか、部の活動状況を生徒会に報告する書類って、今週中だったんだっけ……
 この書類作成、本来なら書記担当の部員と組んでやるべきものなのだが、あたし以外まともに部活に来ない部員のため、部の運営については殆ど美樹に任せっきりになってしまっている。
 しかし、美樹はそんなことを気にする様子も無く、部活に励んでいる。むしろ、人が少ない事を喜んでいる節もあるしね。
 美樹にとっては部員なんて予算確保の数合わせくらいにしか思っていないのでしょうけどね……
「それじゃ、先に病院に向かっているわね」
 あたしはドアのノブをひねる。
「ほ〜い、いってらっしゃい〜」
 書類に目を落としながら、美樹は手のひらだけをあたしとレンに向けて腕を振っていた。
        ☆
「そういえば、昨日あんなことがあったのに、朝、病院に行ったりしないのねぇ……」
 昇降口へ向かう廊下をあたしとレンが並んで歩いている。
 先ほどより幾分傾いた日差しが、教室側の壁をオレンジ色に染めていた。
「……少なくともその必要が無いことだけはわかっているからね……」
 声のトーンを落してレンが呟くように言う。
 あたしは、隣で日の光を半分浴び、さびしい笑いを浮かべたレンの横顔を下から見上げる。
 ……そうか……
 入院している現実世界の『美琴ちゃん』は、兄であるレンに夢の中で会わなければ、次の日から目覚めなくなるのだ……
 昨日の夢の中でレンは形はどうであれ、美琴ちゃんと会っている。
 つまり『美琴ちゃんと夢の中で会っている』という事実がある限り、少なくとも美琴ちゃんが無事に朝を迎えていることはレンには分かっているわけである。
 ……未だにこの辺の理由はわかっていないんだけどね……まあ、兄であるレンにすらわからない今の状況では、これまで部外者だったあたしにわかるはずも無いけど……
 だから、レンはいつもどおりの普通の生活を送っている。
 それが当たり前だから……

 ……でも……
 ……その『いつもと変わらない』レンが悲しい……

 他に誰も歩いていない廊下に、あたしとレンの重い足取りが硬い音を立てる。
 まもなく辿り着いた昇降口は伽藍堂(がらんどう)のように静かに静まり返っていた。
 遠くから吹奏楽部の楽曲が聞こえてきたりするものの、人の気配はまるでしない。
 今の時間帯は、帰宅部は帰宅済み、部活がある人は部活をしているだろう。
 レンは今日教えられたであろう自分のクラスの下駄箱に向い、今まで履いていた真新しいシューズをその中に入れると、鞄から自分の靴を取り出して床に置いた。
 あたしの下駄箱と離れていたため、あたしは自分の靴を持って行き、レンの近くの床で靴を履いた。
 レンと並んで昇降口を出る。
 夕日に照らされた校庭から運動部の掛け声が響いてくる。
 ……いつもと変わらない光景なのに物悲しく感じられるのは何故なんだろう……?
 となりにいるレンの目にもそう映っているのだろうか? まるで遠くの物を見るかのように、かすかに目を細めていた。
 この数日で何かが変わってしまった。今あたしが立っている場所(せかい)は、日常から離れたところにある……その実感が今更ながら感じられた……
「道は分かるんでしょ?」
 校門まで来てから確認するように言うあたし。別にレンが分からなくともあたしが分かっているのだから聞く必要もないのだけれども……
「手続きで学校に来た時も直接行ったから分かるよ」
 あたしに頷きを返してから歩き出すレン。
 あたしもその後ろに付いて行く。
 小高い山の上にある病院はこの場所からも望む事が出来る。
 病院の白亜の壁も傾いた日差しを受けてオレンジ色に輝いていた。
 こちらから見えるということは、向こうからも見えている事に他ならない。美琴ちゃんはあの病室から窓の外を見れば、その眼下にはあたしたちの町が見渡せることだろう。
(なにを思って外を……いえ、町並みを眺めているのだろう……?)
 現実の美琴ちゃんは夢の中の出来事を知らない。普通の人は夢をくまなく覚えている事は無いのだから、美琴ちゃんが覚えがなくとも何ら不思議はない。
 逆にすべて覚えている、今のあたしたちの方が異常でしょうね。
 ……でもあの夢は普通とは違う……
 本当に何も覚えていないんだろうか?
 何らかの断片ぐらい覚えがあっても良さそうだし、普通に人だってちょっとしたきっかけで夢の内容を思い出すことだってあるんだから……
 今日会ったら、もう一度聞いてみようかなぁ……

 ……沈黙。
 病院へ向かうあたしとレンの間には会話が無かった。
 別に深刻な結果を知りに行くわけではない、美琴ちゃんの様子を見に……お見舞いに行くだけなのに、何故か気軽に話すような雰囲気にはなれなかった。
 あたしは物思いにふけったまま、半ばボーっとしながらレンの斜め後ろをついて歩いているだけだった。
「……でも、よかったよ……」
 ふとレンが口を開いた。
「な、なにが!?」
 突然声を掛けられたために、返事をした声が若干どもった。
「……君が『銀の髪』を知っていた…… いや、読んでいたことが……ね……」
 唐突に良くわからないことを言うレン。
「どういう…… あ……!?」
 尋ねる言葉を途中であたしは止めた。
 ……そうだ、昼休み終わりの騒ぎで済し崩しに思考を遮られてしまったから、頭の中から綺麗に消え去っていたけど、あの夢の世界は『銀の髪』に関係があるんじゃないかということをレンに聞くのを忘れていた。
「以前にも言ったと思うけど、あの夢の世界では想像によって空を飛んだり、攻撃を行ったりすることが出来る……って……」
 あたしはレンの言葉に頷く。
「でも、その想像の力は闇雲に使えるわけではないんだよ……」
 考えてみれば当たり前だけど、無制限ならばある意味こんなに苦労することは無いでしょうね。
 つまり、あの夢の世界には何らかの制限がかかっている……ということだ。
 昨日、レンは想像力と精神力という二つの力が、他人の夢の世界への干渉力となると言ってた。
 確かにこの二つを持っていれば力は出るようだけど、でも、当初のあたしは力を自在に使うことが出来なかった。
 もちろんちゃんと想像出来ていなかったため……という可能性が大きいとおもうけどね。
「実はあの世界での想像の内容には、ある種の制限があるんだ」
 レンの話はこうだった。
 あの美琴ちゃんの夢世界では、空を飛んでの移動とか自分の服装とか……自分に直接影響のあるものは自由に想像することができるらしい。
 しかし、相手に対しての攻撃などは、その威力や能力が相手が想像できなければ何ら結果をもたらさない……との事であった。
「つまり、あたしが魔法とかの想像をして攻撃しようとしても、相手がその魔法の効果とか威力とかを知らなければ、全く効かない……という事?」
 あたしの言葉にレンが頷く。
「簡単に言うとそういう事になる。まあ、相手が知らなかったとしても、視覚的な効果だけは出るけどね」
 ヤレヤレといった感じで、軽く首を横に振りならが呟くレン。
 視覚的な効果……つまりゲームでいうと画面効果――エフェクト――みたいなものなのだろうか?
「……その様子だと、試した事があるみたいね?」
「ああ、以前、俺が美琴の攻撃をまともに受けて、三日間眠り続けたって言っただろう? その時にさ…… あの時適当な『想像』で美琴の攻撃を牽制しようとしたんだけど、想像したものが全く効果を示さ無かった。その隙を突かれてね……」
 自嘲気味な笑いを浮かべるレン。
「……なるほどね…… それじゃ、身を守るための『想像』とかはどうなるの?」
「防御するための『想像』は、どんなものでも効果を発揮するけど、これも相手が知っているものの方が効果は高いみたいだよ」
 つまり、どちらにせよあの夢世界では、『美琴ちゃんが知っているものを想像する』ことが有利になるということか……
「……『銀の髪』…… 美琴ちゃんも読んでいるのね?」
 あたしの問いかけに頷くレン。
「美琴が最近読んでいる本で一番お気に入りだからな、銀の髪は」
 とどのつまり、『銀の髪』の魔法などがあの世界では効果をもっとも発揮しやすい、と言う事になる。
「……じゃあ…… 逆に美琴ちゃん……というか、あの『(みこと)』と名乗った少女が、あたしたちとかを攻撃してくる時はどうなの?」
「無制限だ……恐らくね……」
 ……やっぱり……
 美琴ちゃんの夢の中なのだから、そう言うことになるのは十分予想できた。あたしとしても確認のために、レンに聞いたようなものだからね。
 理不尽な話だけど、美琴ちゃんの世界なのだから当然と言えば当然なんだけどね……
 ……でも、これで一つ分かったことがある。
 あたしが突然『力』を使えるようになった理由…… それは恐らく美琴ちゃんは、あたしの中から『自分の世界で通用する想像』を引き出してくれたんでしょうね。
 どんな風にすればそんなことが出来るのかなんてあたしには知る由も無いけど、『美琴ちゃんが自由に出来る世界である』ということを考えればつじつまは合う。
「ホント、厄介な世界よね……」
「全くだ……」
 ウンザリ……というより、もはや悟っているレンは溜息一つであたしの言葉を受け流す。
 今まで数え切れないほどの溜息を吐いてきたんでしょうね……
 考えてみればこんな話、誰も信じるはずが無い。あたしだってこの状況に巻き込まれない限り、信じることは無かっただろうし……
 つい最近まで一人で抱え込んできたのだ。レンは……
「それはそうと、あの『(みこと)』って子のことは、何か知らないの?」
 昨晩の夢の中で、あたしとレンを日本刀らしき刀で切り裂こうとした『命』と名乗った少女……
「いや、夢の中で話した通り『命』については俺は何も知らない…… 今まで夢の中で、他の人を見かけたことはあったけど、単に夢の世界に一瞬だけ引き寄せられた人たちだけだったよ」
 首を横に軽く振り、手の打ちようが無いといった感じのレン。
 思えば、あたしの意識の中に出てきた美琴ちゃんと、『命』が出てくる前にあたしたちの目の前にいた『美琴』とは一体どういう関わりがあるのだろうか……?
 そして、意識の中で美琴ちゃんがあたしに告げた言葉……
  『安心してください…… しばらく会えなくなるかもしれませんが…… わたしは大丈夫です……』
 あの『しばらく会えなくなるかもしれない』とは、どういう意味だったんだろう?
 今から思い出すと疑問の種は尽きない…… むしろ増えたような気がする……
「はぁ……」
 あたしもレンに当てられたかの如く、溜息を漏らしていた。
        ☆
 数歩歩くたびに溜息ばかり吐いている、傍から見たら非常に鬱陶(うっとう)しいことこの上ない、制服を着た男女二人組――まあ、あたしたちの事だけど――は、丘の上への道の入り口近くにようやく辿り着いていた。
 その丘の上への入り口にさしかかった時、住宅地の外れに木々に囲まれた一角があたしの目に止まった。
 ……ここって……!?
 あたしははっとしたように、目を木々に囲まれたその場所の入り口に向けた。
『のぞみヶ丘の公園』
 入り口に飾られた分厚い石版にそう彫られていた。
 保健室で寝ていた時に夢に出てきた公園……
 何故この場所を今になって夢に見たのか分からない。
「ねえレン、ちょっとここに寄って行かない?」
 入り口を指差しながら、少し前を歩くレンに何気なくあたしは呟いた。
 夢に見たせいもあって、ちょっと気になったから中を見てみたいと思っただけなんだけどね。
「…………」
 ……何故か返事が無い……
「……レン?」
 レンは公園の入り口を凝視したまま、固まっていた。
 後ろからでは表情は見えないけど、何にか驚いているような感じを受けた。
「いったいどうしたの? 返事くらいしなさいよ……」
 口を尖らせるあたしに何も言わず、レンはその公園の中に足を踏み入れた。
「あっ! ち、ちょっと待ちなさいよ!」
 あたしは慌ててその後ろを追いかけて公園の中に入った。
「この公園に来るのもずいぶん久しぶりな気がするわね……」
 久しぶりに踏んだ公園の土は、小さい頃に見たそのままに薄く下草に覆われていた。
 季節柄まだ緑に覆われているとは言い難いけど、枯草の中にもちらほらと緑色の草が覗かせている。
 小さい頃のあたしは、この公園で遊んでいることが多かった。
 比較的家に近いということもあったし、公園内の敷地の大きさと遊具もそれなりに置かれているため、友達もここで遊んでいることが多かったからでもあるけどね。
 でも、ある時からパッタリとここに来なくなってしまった。
 それがいつだったか、そして何故来なくなってしまったのかなんて、もう覚えてもいないけど……
 あたしがそんな感慨にふけっているのを知ってから知らずか、あたしのことなんて気にも止めてないような様子でレンはどんどん先に行ってしまう。
 まだ日がある時間なので、公園内には、付近の子供たちや主婦たちがあちこちに見られる。
 しかし、目の前を歩くレンの目には、それらのものが映っていないのではないか? ……とさえ疑うほど、周りを見向きもせずに一直線にどこかに向けて足を運んでいた。
「……あきら」
 早足で歩きながら、急にあたしに向けて口を開くレン。
「なに?」
「すまないけど、ちょっとジュース買ってきてくれないかな……?」
「はぁ?」
 突然の頼み事にあたしの思考回路が一時中断する。
 妹を見舞うために向かっている病院を目の前にして、何を言い出すのだ、この男は……
「頼むよ、お金はちゃんと出すからさ」
 レンはあたしに振り返ると、ズボンのポケットから財布を取り出して、ジュース代をあたしに手渡してきた。
 意図がまったく掴めないが、あたしは差し出された手のひらから小銭を受け取った。
 ……きっちり、自分の分しかないでやんの……
 人に頼んでおいて、自分の分だけとは何事よ。
「……で、何を買ってくればいいの?」
 憮然としたものの、レンの目つきが真剣なものであることは十分読み取れたため、その急なお使いを引き受ける事にした。
「あきらの好きなものでいいよ。俺、あの木の近くにいるから、よろしく」
 レンは少し先にある大木を指差しながら、そう言ってさっさと立ち去ろうとする。
 ……変なヤツだけど、意味の無い事はするような人間じゃなさそうだからね、レンは……
 あたしはその小銭を握って、公園から道路を挟んで向い側にある商店に向かう。

 晶が商店に向けて歩いている時、煉夜は先ほど指で指していた大木の幹に手のひらを軽く当て、俯いていた。
「……久しぶり…… 元気だったようだね……」
 煉夜が小さく呟いたその言葉につられたかのように、枝葉が風にゆれた。
「……あの時のこと…… みんな忘れてしまっているみたいだ…… やっぱりあの人が言っていたことは本当だったよ……」
「……仕方が無いことだった……あの時は…… ああしなければ失っていたかもしれないのだから……」
「今回のことだって、あの人が言っていた『力』のせいかも知れないのだしね……」
 俯いた煉夜からは表情を見る事は出来ない。
「……でも、あの人の言葉が本当なら、いずれ思い出してくれると信じているよ……」
 大木の枝がざわざわと、生き物のようにうごめいた。
 その場に流れる風に揺らされているはずなのに、その光景はそれ自身が意思を持ったかのようにもとれる。
 まるで煉夜の訪れを待ちわびたかのように……
 煉夜が語りかけている木……それは『この公園の中心にある最も背の高い木』……

「レン、買ってきたわよ」
 あたしは商店前に置かれていた自動販売機からジュースを購入し、レンの元へ戻ってきた。
 レンは先ほど指差していた大木の幹に手を当てて、なにやら考え込んでいたみたいだけど……
 おもむろに顔を上げて、あたしの方を向きなおる。
 妙に寂しげな表情を湛えてこちらを見ているレン。
 ……なにかあったのかな……?
 しかし、あたしはあえて問いかけようとしなかった。
 わざわざ、あたしにジュースを買いに行かせてまで一人になろうとしたのだから、それなりのことがあったと考えるのが普通でしょうしね。
 それからしばらく、その大木の前に無言で佇むあたしとレン……
 レンはあたしからジュースを受け取りもせずに、ただ先ほどから風に揺れている木の枝を見つめていた。
 日が落ちて行くにつれて人影が少なくなって行く公園の中で、静かに木々が風に揺れていた。
 ふと、あたしもレンが見上げている木に目を向けてみた。
 ……この木って確か……
 あたしの頭の中に、霧雨の中でたたずんでいたあの夢の光景が浮かび上がった。
   ピッピッピッーー!!
 突然耳障りな電子音が鳴りだした。
「な、なに!?」
 静寂を打ち破るかの如く響いたその音にあたしは驚いていた。
「あ、俺の携帯だ……」
 レンは至ってマイペースな手つきで、上着のポケットから携帯電話を取り出し、液晶画面に表示された文字を読み取る。
「……病院……?」
 あたしはレンの携帯を覗きこむ。
 そこにはこれから向かうつもりであった病院の名前が表示されていた。
「……なんだろう?」
 レンは受話ボタンを押して、電話に出た。
「もしもし、東陽ですが…… あ、先生、いつもお世話になっています」
 電話の相手は美琴ちゃんの主治医だろうか?
「はい……なんだって!?」
 レンが悲鳴のような怒鳴り声を上げた!
「ど、どうしたの!?」
「美琴が……!」
「美琴ちゃんに何かあったの!?」
 青ざめた顔で頷くだけ頷くと、レンは全速力で公園から飛び出して行った。
「ちょ、ちょっとぉ〜!! 自分の鞄くらい持って行きなさいよ!」
 レンは自分の鞄を木に立てかけたままにしていたのだった。
 仕方なく、あたしはレンと自分の鞄を両手に持ってレンの後を追って駆け出した。
 でも、美琴ちゃんに一体何が!?
        ☆
 丘の上への道を駆け上がり、病院前のロータリーに着く頃には、あたしはへとへとになっていた。
 レンはどこにそんな体力があるのか、全力で道を走り抜けたにもかかわらず、既に病院内に姿を消しているようだ。
「あ、晶〜!!」
 ロータリーを走りぬけようとした時、脇から声をかけられた。
「み、美樹! もう着いていたの!?」
 部室で書類を書いていたはずの美樹が、既に病院の入り口近くに立っていた。
「晶とレン君が遅すぎるだけよ…… それより、ついさっきレン君が猛烈なスピードで走り抜けて行ったんだけど……」
 美樹はレンが入って行ったであろう、自動ドアを指差している。
「美琴ちゃん……妹さんに何かあったらしいのよ!」
 それだけ言って、あたしも自動ドアを抜けて病院のロビーに駆け込んだ。
「……って、晶も待ってよぉ〜!」
 美樹が後ろから追いかけてくる。
 あたしはそれに構わず、ロビーからエレベータホールに向かって走る。
「こらーー!! 病院内を走るんじゃありません!」
 通りかかった看護婦さんの怒声が飛んでくるが、そんな事を気にしている暇なんて今のあたしには無かった。
「すいません〜!!」
 後ろから追いかけてきた美樹がその看護婦さんに頭を下げながら、やっぱり走るのを止めずについて来る。
 ちょうど到着していたエレベータに飛び込み、一瞬だけ美樹を待つ。
「はぁはぁはぁ…… 晶早すぎ……」
 息を切らせて美樹はエレベータの中に乗り込んでくる。
 美樹が乗り込むと同時にエレベータを閉めて、美琴ちゃんの病室のある階、最上階のボタンを押した。
「い、いったい何があったの? 容態が急変したとか……?」
「あたしにも何が起きているのかはさっぱり…… レンは病院からの電話を受けた途端、顔色を変えて走りだしていったから……」
 病気で入院しているくらいなのだから、美樹の言う通り、容態の急変によって異常が起きたと考えるのが普通だろう。
 しかし、昨日レンが言っていた限りだと、病気自体は殆ど完治している様子だった。
 問題なのは、突然眠りから覚めない状態に陥ってしまうことだけのはず……
 しかし、これもレンと昨晩の夢世界で会っているのだから、『起きていない』ということは無いはずなのだが……
 大体、起きていないのならもっと早く連絡が来るだろうし……
   ポーンっ
 軽い電子音を立てて、エレベータが到着を示す。
 ドアが開けきらないうちにあたしと美樹はエレベータを飛び出す。
 誰も居ない廊下にカツン! カツン! という固い音を交互に響かせながら、あたしと美樹は走りぬける。
 既に夕日は沈みかけており、窓からの光も殆ど無い。
 日の光は、薄く窓枠の形を廊下に写すだけとなっていた。
「み、美琴ちゃんの…… び、病室は!?」
 言葉を切らせながら問う美樹にあたしは、
「一番奥よ!」
 とだけ言う。
 そして、美琴ちゃんの病室の前に着いた。その病室のドアは開け放たれていた。
「美琴! しっかりしろ!」
 その開け放たれたドアからレンの悲痛な叫びが耳に届く。
「お、お兄さん! 落ち着いてください!」
 恐らく看護婦さんだろう、レンを諌める声がした。
「レン!」
 あたしと美樹も病室に飛び込む。
 病室にはレンと主治医と思われる初老の男性、看護婦さんが居た。
 そして……
「み、美琴ちゃん……」
 あたしは呆然と立ち尽くしてしまった……
 美琴ちゃんは、上半身をベットから起こし、レンに両肩を揺さぶられている。
 だが、あたしを一瞬にして呆然とさせたのは、その目だった。
 やや赤味のかかった綺麗な瞳からは、輝きが失われていた……
 その瞳には何も写していない……
 あたしや美樹、看護婦さんたちだけでなく、目の前で必死に呼びかけるレンすらも……
 レンの呼びかけにも、ピクリとも反応する様子が無い。
 ただ、生きているということだけは分かる。
 意思的反応は無くとも、体自体の反射で揺さぶられる身を立て直していることだけは感じられた。
 心あらず…… 正にその言葉通りの姿の美琴ちゃんがそこにいた……
「美琴! 美琴ぉ〜!!」
 もはや錯乱状態となったレンは、ただひたすら美琴ちゃんの名を呼びつづけるだけだった……
 レンに激しく揺さぶられ、美琴ちゃんの首がガタガタと揺れている。
「レン! 止めなさい!」
 あたしはレンの右肩を捕まえて押しとどめようとした。
 それでもレンは止めようとしない。
 ……しょうがない……
   バシンッ!!
 あたしは平手でレンの頬を叩いた。
 こういう時の定石だけど、効果はあったみたいね……
 あたしの平手打ちを受けたレンは、我に返ったようだった。
 レンは美琴ちゃんの両肩からそっと手を離し、立ち尽くす。
「気持ち……わかるけど、ここはお医者さんに任せましょう……?」
「ああ……」
 あたしの言葉に頷くと、レンは主治医の先生と看護婦に頭を下げて、部屋を出て行った。
「レン君……物凄い剣幕だったわね……」
 今まで口をつぐんでいた美樹が恐る恐るといった感じで声を掛けてきた。
「……うん……大事な妹さんだもんね……」
 あたしは、正面を向き何処を見ているのかすら分かりかねる美琴ちゃんを見つめたまま、首を縦に振って頷く。
 いったいどういう事……?
 『安心してください…… しばらく会えなくなるかもしれませんが…… わたしは大丈夫です……』
 何も思いつかないあたしだったが、美琴ちゃんが最後に言っていた言葉が再び脳裏を掠めた。
 ……まさか……このことだったの!?
 呆然としているあたしの横で、主治医がインターホンで精神科医を呼び出していた……
        ☆
「……ふぅ……」
 あたしは自分のベットの隣に立ち尽くし、思わずため息を吐いていた。
 今日も……いろいろあったわね……
 学校前で倒れて……
 レンが転校してきて……
 教室で大騒ぎになっていて……
 美琴ちゃんがおかしくなっていて……

 ……あの後、レンが落ち着くまでしばらく時間がかかった。
 あたしの平手打ちを受けた後、レンは病室の外のソファーに座って平静を保とうとして、じっとしていた。
 しかし、中々落ち着けないのか、しばらくすると立ったり座ったりを繰り返していた。
 美琴ちゃんの病室に呼ばれた精神科医が今の美琴ちゃんの状態を診察した後、主治医や看護婦さんから、今日一日の美琴ちゃんの様子の説明を受けた。
 それによると、朝に美琴ちゃんの起床を確認した時には異常を感じなかったという。
 元々、美琴ちゃんはおとなしい性格だったし、低血圧で朝に非常に弱い事も知っていたため、気にとめられなかったらしい。
 しかし、夕方になって主治医が検診にまわって来た時に、様子がおかしい事に気が付いた……とのことである。
 その事に関してレンは何も言わなかった。
 元々、精神関係の病気で入院していたわけでも無かったしね……
 説明を受けた後、レンとあたし・美樹が病室に訪れた時には、美琴ちゃんは静に眠っていた。
 目を瞑って小さな吐息を立てるその寝顔からは、異常な状態という印象はまったく無かった。
 とりあえず、今夜は看護婦が交代で見守るというので、あたしたちは帰された。
 三人揃って病院を出た。
 帰り道は三人とも途中までは同じ道なので、必然的に一緒に帰る事にになったが、レンは終始無言だった。
 あたしたちも言葉を挟む気にもなれず、各自別れ際に「それじゃ、また……」と言うのが精一杯だった。
 あたしは自分の家に帰りつくと、既に用意されていた夕食を少なめに摂り、風呂に浸かってからパジャマに着替えて寝る準備をしていた。

 あたしは窓を開けて外の空気を部屋の中に取り込む。
 桜が咲く時期とはいえ、夜風はまだ冷たい。
 夜空には満月近い月が鋭い輝きを地上へと降り注いでいた。
 太陽の光が垂直に当たる満月の時よりも、斜めから照る満月前の月は一番輝きが強く感じられる。
「綺麗な月夜……ね……」
 夜の闇に沈んでいる町並みは、白い月の光が照り付けてきらきらと輝いて見える。
 あたしは窓から身を乗り出して、白銀の月とそれに照らされた町並みを眺めていたが、部屋の空気がひんやりとした外の空気と入れ替えられたのが感じられると、すぐに窓を閉め、カーテンを引いた。
 ……眠い……
 今日一日の疲れもあったけど、夢世界にいるとあまり寝た気にならない。
 急激に襲ってきた眠気に素直に従い、あたしはベットに潜りこんだ。
 ……今夜も美琴ちゃんの夢の中に行くのかな……
 現実の美琴ちゃんはあんなふうになってしまったが、夢世界はどのようになってしまっているのだろうか?
 そんな事を思いながらあたしは目を閉じた。
 どうか、平穏無事に朝を迎えられますように……と願いながら……
 例え、それが困難であってもあたしは願わずにいられなかった。

 そして、今宵も深淵の夢の彼方へと攫われる……

   第4話 完

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