今宵、月が出て…
風野 旅人
「にゃぁ〜ん、にゃぁ〜ん」 僕の隣で一人の少女が、空に輝く月に向かってしきりに鳴き声を上げている。 月は霞がかかったような光を放っている。 この季節特有の朧月… 山間に浮かぶその月を、僕と少女は並んで土手に座り込みながら見上げている。 その少女の鳴き声は、とても嬉しそうだ。 何かを懐かしむような…そんな感じがする… 僕もその月を見上げていると、昔を思い出す… ふと横を向き、隣で座っている少女を眺めた。 「にゃぁ〜ん、にゃぁ〜ん…」 その少女は、僕が眺めているのも気付かずに盛んに鳴き声を上げている。 背は小柄な僕より小さく、無邪気な表情が良く似合う顔をしている。 何より特徴的(?)なのは、短くまとめた頭に猫のような耳が付いている事だろうね。 「にゃぁ?どうしたの?」 少女は、ようやく僕が見ている事に気が付いたか、鳴くのを止めて僕の顔を覗き込むように見る。 少女の瞳はとても大きく、そして水面のように澄んでいた。 その瞳で見られるとこころの中を見透かされてしまっているような感じを受ける。 僕はその瞳から目を逸らし、再び月に目を移した。 「何でもないよ。」 …ただ…昔の事を思い出していただけ… と僕は心の中で続けた。 …君と出会ったその日を…ね… その日僕は黒い服を着ていた。 窮屈なその黒い服に身を包みながら… 雪が降りしきる住み慣れた町の中で… 僕は…黒い車が2台並んで走りぬけて行くのを見送った… …その日から僕の目から涙が流れる事はなくなった… その日を境に僕は山に囲まれた小さなこの村にやってきた。 住み慣れた町とは違い、豊かな自然に囲まれた村だった。 季節の移り変わりだけがその村を変化させている…そんな村だ… 見知った友人もいない。 近くの学校に通う事になったが、1クラスで3学年が一緒に勉強をしている。 僕と同じ学年の人は誰もいなかった… 学校から帰ってくると、僕はすぐに着替えて畑に出る。 それが僕の日課となっていた。 僕を預かっている父方のおじいさんとおばあさんは、畑仕事で生計を立てているからだ。 二人は手伝わなくてもいいといってくれていたが、僕は手伝う事を望んだ。 …他にする事が無いから…… …何かしていないと忘れられないから…… 畑仕事は山に日が隠れるまで続く、最初の頃は途中で疲れ果てて、最後まで手伝えなかった。 この頃はやっと最後まで手伝えるようになった。 日が暮れ、畑仕事が終わると風呂に入り、食事をとる。 そしてそのまま寝てしまい、目が覚めれば学校に行く… …それからの日々は、その繰り返しだった… 変わらない単調な暮らし……でも、それで良かった。 何も変わらない…何も失うものも無い… でも…僕は出会った… その日は月が綺麗な夜だった。 木々の生い茂った森の中までも届くほどの光を放っていた。 僕はその時、森の中で迷ってしまっていた。 おばあさんに頼まれて草を取りに行っていた。 しかし、思いの外時間がかかり、日が沈んでしまった。 慣れていたはずの道を間違えてしまったらしく、森の奥深くまで来てしまったようだ。 『もし、道に迷ってもむやみに歩き回らないようにするんだよ』 いつもおばあさんはそう言っていたのを思い出し、近くの大木にもたれかかるとそのまま座り込んだ。 季節柄、さほど寒くない時期だったので凍える事はないが、それでも薄暗い森の中で過ごさなければならない。 おじいさんとおばあさんが探しに来るとしても明日の朝になってしまう。 僕はため息を吐いた。 …何処で道を間違えたんだろう? …いつも通りの道を戻ってきたはずなのに… ぼんやりと座り込んでいる僕の上から唐突に淡い光が射した。 僕ははっとなり、上を見上げると木々の合間から月が顔を覗かせている。 「月か…」 そのまま月を僕は眺めていた… …綺麗だな…街にいた頃では想像もつかないくらいに…… いつしか僕はそのまま眠ってしまった… 「にゃぁ、にゃぁ、にゃぁ〜」 眠っていた僕の耳に猫のような鳴き声を耳にした。 その声で眠りから覚めた僕は声がした方を見た。 その先は月の光も届いていないらしく真っ暗だった。 その奥から森に吹く風に乗って、僕の耳まで届いて来たらしい… 「にゃぁ、にゃぁ〜」 …まただ… 僕は立ち上がりその鳴き声の方に向かって歩き始めていた… その声がなんだか嬉しそうな鳴き声だったので、もしかする民家が近くにあるのかもしれないと思ったからだ。 僕は闇の中を足元に気を付けながら、声のした方を目指した。 暫くすると、急に視界が開けた。 頭の上は木々が大きく口を開けたようになっていて、月と星の輝きが僕の目に飛び込んできた。 そして僕の目の前には、月をうつして輝く水面が広がっていた。 「この池は……」 僕の中で何かの情景が浮かんだ… とても懐かしい感じのするその場所…… 誰かと来た事のあるこの場所を…… 「でも…この場所は…」 その時、少し強めの風が吹き僕の目の前に何かが舞い下りてきた。 小さな桃色の雪… 桜の花びら… …僕は…この場所に来た事がある… 水面には盛んに舞い落ちる桜の花びらが浮かんでいる。 …誰と… 僕が思い出そうとした瞬間、またあの声がした。 「にゃぁ〜ん、にゃぁ〜ん」 はっと、なってそちらを向くと、池の対岸に舞う大きな桜の花びらが見えた。 …いや、あれは花びらじゃない…人だ… その人が着ている服は、月の光を浴びて桃色に淡く光っていた。 僕は、静かに池の周りを回り、そっとその人に近づいた。 …女の人? その人は、月を見上げながら嬉しそうに踊りを踊っていた。 僕は固まったようにその姿に見とれていた。 …綺麗だな…… 正直にそう思った。 暫く見とれていると突然その人は踊りをやめ、こちらを振り向いた。 どうやら黙って見ていた僕に気が付いたらしい。 僕を見てその女の人は、にっこりと笑いながら近づいてきた。 「にゃぁ、踊ろうよ!一緒に〜」 僕はその笑顔に引かれるように… その池のほとりで… その女の人と… しばらくの間… 月が木々に隠れるまで踊り続けた… …ぽとり…ぽとり… 踊っている間、僕の目から何故か涙が出てきた… 目の前で踊っていた女の人はそれに気が付き、困った顔して僕の顔を覗き込んだ。 「どうしたの、なんでないてるの〜」 その問いに僕は… 「嬉しいから…」 と答えた… 「君はうれしいとないてしまうの?」 不意にその女の人が、僕を抱き寄せた。 「泣き止むまでこうしていてあげるの。泣き止んだらまた踊るの」 抱き寄せた僕の顔を見ながらにっこりと微笑む女の人… 僕はその女の人の無邪気な優しさで…泣き続けてしまった… そして…思い出したのだ…この場所を… 『こら、危ないから池に近づいちゃ駄目でしょ!』 『大丈夫だよ!僕泳ぎ上手だから!』 桜が舞う季節に… この場所に…来た事があった… 『泳ぐのが旨くても危ないぞ、この池は!』 二人の人と一緒に… 暫くして僕は泣き止んでいた… その女の人は、それを確認するとそっと僕を離した。 「なきやんだの、それじゃもっと踊るの〜」 そういってまた、池のほとりで踊り始めた。 それを見て僕もまた踊り始めた。 いつまでも…いつまでも… その日から僕の日常は動き始めていた… そう単純な繰り返しではなく変化のある日常へ… この村では、中学を卒業すると高校には行かず、家の家業である農家になる場合が殆どだ。 でも僕は、高校に行く事に決めた。 毎日20Kmの自転車での往復だが、それでも通い続けた。 そして、高校卒業… 学校ではそれなりの成績を修められたので、大学進学を希望した。 さすがに大学となると、家から通うのは難しい。 そのため、大学のある町へ引っ越さなければならなかった。 ただし同じ県内の大学であったため、週末には村に戻っていた。 お世話になったおじいさんとおばあさんを残しているわけには行かなかったのである。 そして…もう一つ… …この少女と出会うため… この少女が何者であるかは、未だに分からない… でも、いつもこの時この場所に来ると、ここにいてくれた。 僕が年を重ねているのに、この少女は年をとることはないらしい。 数年後には僕と外見的には年齢が逆転してしまっていた。 でも、そんな事はどうでも良かった… この少女といる時が、僕が一番心安らぐ時であった事は確かだから… 「にゃぁっ!」 少女は一声上げると、悲しそうな表情になった。 「どうした?」 「月、隠れてしまったの…」 空を見ると、月は山陰に隠れてしまってもう見る事は出来なくなってしまっていた。 「今日はもうお別れだよ…」 その少女はそう呟くと座っていた土手から飛び降りた。 「そっか…それじゃまた今度な…」 僕がそう言うと少女の表情は再び輝いた。 「にゃぁ!」 一声鳴くと、森の中へ帰っていった。 その姿が消えるまで見送った僕は、再び夜空を見上げた。 月がなくなった夜空の主役は星に変わっていた。 …いつまでこうしていられるんだろう…… 変化のある日常を求めた時から、こんな風に過ごす事がなくなってしまって行くのが分かっていた。 いつしか、あの少女とも会わなくなってしまうという事を… そして、忘れてしまう事も… …だから… 「だから…今はこうしていたい…その時が来るまで…」 僕はその呟きを星空に投げかけた… 完 |