Dobules
風野 旅人
第一話 桜雪の季節に ―霞―
昼。
昼である。
まっ、寝てしまったのが6時くらいなので、あんまし寝れてはいないが……
……やっぱし寝不足だな……今日は家に帰るか……
俺は机に突っ伏したまま、ぼんやりと考えていた。
時計の針は、10時を指している。
…………
「げ!? 講義が始まっている!?」
時計を見た瞬間、俺は机から跳ね起き、机の上に置いてあった講義の準備を引っつかみ、ジャンクの山を掻き分けて、研究室から飛び出した。
「う……」
寝起きで、ダッシュをかけたせいで、頭がふらついている。
それでも何とか体勢を整えて、廊下を駆け出す俺。
「うひゃぁ〜! 絶対間に合っていない!」
俺は胸ポケに入れてあったままだった時計を見ながら階段を駆け降りる、
既に十時五分……もはや絶望的な時間である。
この時間の講義の講師は、昨日いきなり休講にしていた講師である。
出席にかなり厳しい講師で、出席が足りない場合、最悪テストが受けられない……つまり単位が貰えないのである。
今迄、この講義の出席を逃した事は無いため、一度くらいなら問題ないだろうが、それでも行かないわけにはいかなかった。
講義が行われる教室は、この棟の隣にある本館の2階にある。
一旦、一階に降りてから外に出て、外の通路を通ってからでなければ本館に行く事が出来ない。
階段を降りきり、俺は外に出る扉から飛び出た。
「うっ……」
外に出た瞬間、俺は思わず目を瞑ってしまった。
外は銀世界のままであったが、空は晴れ上がっており、太陽の光を雪が反射して、いつもよりも明るく感じられる。
光に目が慣れていないせいで、目が眩んでしまったのだ。
「この様子じゃ、午後には全部融けてしまうな……」
通路に屋根からは、雪から変わった水滴が滴り落ちている。
俺は、屋根から落ちる水滴を横目で見ながら、本館に飛び込み、階段を駆け上がる。
2階の廊下を駆け抜け、ようやく目的地、教室までたどり着いた。
「はぁはぁはぁ……さて……」
俺は教室の後ろの扉を静かに開ける。
「遅れてすいません……」
呟くように言いながら、教室に入った。
……が……
シーン……
別に講義中だから静かなわけではない。
誰もいないのである。
一瞬、教室を間違えたかと思ったが、そうではないらしい。
前のホワイトボードを見ると……
『本日も休講』
「なんだよそれ……」
力無く呟く俺。
思わずその場に崩れ落ちそうになる。
ちなみに『も』の部分は誰かが『<』で書き加えた物だが……
全力で走ってきた俺って一体……
呆然としながら、ものけの空となっている教室を後にする俺。
結局この講義は欠席扱いになった事であろう……
「はぁ……」
ため息しか出てこない……
俺は、トボトボとした足取りで、元来た道を引き返した。
途中で立ち話をしていた恒哉にあい、
「本日も相変わらず会議中につき、講義は休講、でも動きがあったみたい」
と言っていた。
相変わらず情報の速い恒哉である。
「動きって?」
先ほどの件で半ばボーゼンとしている俺は、さして興味が無さそうな口調で聞き返す。
「例の編入生が科を決めたらしいよ」
「へぇ〜……」
俺はそれだけ聞いて、その場を後にした。
なんだか物凄く疲れた気がする……
肩を落として情報棟の中を歩いていた俺に……
「なに疲れた顔してんだ?秋野!」
と声をかけて来た奴がいる。
俺はその声に対して、本能的に聞こえない振りをする。
その声に含まれるにやついた響きに俺の本能が拒否を示したのであった。
俺はそのままその場から離れようとしたが……
バシッ!
薄手のノートが俺の後頭部を直撃する。
「うおっ!」
ある程度予測していた事象とはいえ、さすがに後ろからの攻撃は避けられなかった。
頭を押さえる俺に、
「無視するなよ、秋野」
と言うのは、言わずと知れた川野辺瑠璃である。
「……」
それでも俺は無視して研究室に戻ろうとしたが……
「え……?」
その時、俺は何か忘れているような気がした。
無視していた川野辺の方に俺は向き直った。
「なっ、なんだよ……」
急に振り返られたので、川野辺の方が驚いた顔をする。
……何か……有った気がするんだけどな……
俺は何かを忘れているような気がしていた。
川野辺の声を聞いた時、何かを思い出しそうになっていたが、それも一瞬の事で、何が頭に浮かんだのか分からなくなってしまった。
「なっ、なに人の顔をじろじろと見てるんだよ! 気持ち悪いっ!」
川野辺らしくなく、顔を真っ赤に染めて俺を怒鳴りつける。
「はっ!?」
俺はぼんやり考えながら川野辺の顔を見ていたらしい。
「いや……何でも無い……」
俺は踵を返し、再び研究室へ向けて足を運ぼうとした。
「あたしの事見て、スケベな事でも考えていたんだろ!」
川野辺は元のからかった口調でいう。
「いや、それは絶対に無い!」
思わず『絶対』のところに力を入れて言う。
「川野辺がそんな対象になるはずが……」
めしっ!
そこまで言いかけた時、この世の物とは思えない激痛が、脳天を直撃した。
「のぉぉぉぉぉ……!?」
俺の悲鳴が静かな情報棟に響き渡った。
……痛い……痛すぎる……
いつも俺の事を叩く川野辺だが、これほど強烈なのは初めてだった。
俺は頭を押さえたまま、川野辺の方を振り向き……
「ぎょっ……!?」
思わず硬直する俺。
今まで見た事が無い、般若の形相を浮かべた川野辺が拳を作ったまま立ち尽くしていた。
その握り締めた拳からは今にも湯気でも立ちそうなくらいきつく握られている。
「……」
川野辺はそのまま無言で、俺に背を向け、その場を歩き去った。
その後ろ姿が怒りを表していたのが、容易に分かった。
「……余計な事を言ったかな……」
俺は暫く頭を押さえたまま、その場に立ち尽くした。
「どうしたの?」
俺の叫びを聞きつけたのだろう、近くの研究室の扉から望が顔を出した。
「望か……なんでも無いよ。壁に頭をぶつけただけ……」
俺の言葉に首を傾げながらも、頷く望。
「でも……なんだか川野辺さんらしい声も聞こえたんだけど……」
……望……耳が良すぎ……
「ああ、頭をぶつけた俺を見て、川野辺が指差して笑って去っていったところ……」
俺は適当な言い訳をしてその場を離れた。
俺は少し反省し、後で謝ろうと考えながら、研究室に入った。
研究室のなかには、師匠と威沙先輩が立ち話をしていた。
……と言っても、先輩はうなずいていただけだが……
「よお、秋野」
入ってきた俺に声をかける師匠。
いつもの笑みでぺこりとお辞儀をする先輩。
「こんにちは、先輩、師匠」
俺は挨拶を返し、自分の机に持っていた講義の用意を投げ出した。
「その様子だと、講義は中止だったようだな……」
呆れた顔で呟く師匠。
「そうです……って、何で師匠がいるんですか!?」
「何でって、ここはわたしの研究室だからな……」
「そうじゃなくて! 今会議中じゃないんですか!?」
「ああ、それならすっぽかした」
当然の如くいう師匠。
「すっぽかしたって……いいんですか?そりゃあ、師匠は編入生を取る気はないでしょうけど……」
「事情が変わってな……あの場にいても俺が責め立てられるだけだからな……」
師匠は、顔を軽くしかめながら言う。
「事情が変わったて……何があったんですか?」
「その編入生がこの科、情報技術科を選んだんだ」
そう言えば、恒哉が編入生が科を選んだらしいって言っていた。
でも、それでどうして師匠の立場が悪くなるんだろう……?
「秋野、昨日わたしがあの後何処に行ったのか知っているよな?」
「あ……」
そうか……師匠が疑われているのか……
あの後、師匠はSAI研に編入生に会いに行ってくるって出かけていった。
確かに、情報技術科の師匠が会いに行った後、この科を選択されたのではそう勘繰られても不思議ではないが……
……想像力無いのかな……うちの学校の教師は……
もしそんな事をすれば真っ先に師匠が疑われるのは目に見えている。
そんな馬鹿なことをわざわざ師匠がするはずもない。
「……でもまあ、疑われも仕方が無いかもしれん」
「どうしてですか?」
「昨日、本人とあったときまでは、『実際見てみて考える』と言っていたんだ。……ところが……」
「突然、ここ、つまり情報技術科を選んでしまった……と……」
「そういうこと」
師匠はため息を吐きながら近くに有った椅子を引っ張り出し、そこに腰を下ろす。
胸のポケットから煙草を取り出し、火を付けようとしながら師匠は、
「この件ついては私は弁明する気はないし、その必要も無いと考えている」
という。
「その通りよ、雅茂」
研究室の入り口から唐突に声がかかる。
その声に思わず沈黙してしまう師匠と俺。
師匠を名前で呼ぶ人間など、あの人しかいない。
師匠は露骨に顔をしかめると、聞こえなかった振りを決め込もうとする。
「……と言う訳で、私はこの件からは引くつもりだ」
火を付けようとしていた煙草を持ったまま、そくさに師匠は奥に引き込もうとする。
椅子から立ち上がった師匠を
「こらっ」
服の端を掴み、逃げようとする師匠を捕まえるその人。
「放してくれませんか?」
「嫌です」
きっちりですます調で話す師匠に、にこやかな表情を浮かべていうその女性。
白石美名先生、情報工学科の先生である。
若々しくて美人の先生なのだが、ことあるごとに師匠を追い掛け回している人である。
毎度毎度、飽きもせず師匠を追い掛け回し、迫りまくっている。
「では、何のようですか?」
どうやら、師匠はこの人には頭が上がらないらしく、抵抗する様子も無く仏頂面で用件を聞く。
「いつものながら、つれないわね……まあ、いいけど……」
「つれなくするのは、私のせいじゃないですよ……」
「それじゃ誰のせいかしらね?」
……いつもの掛け合いが始まりそうなのが目に見えてきた……
「……ところで先生、何のようで来たんですか?」
俺は二人の間に入って、質問をする。
「あっ、そうそう、それだけどね。あの編入生の件だけど、工学科は手を引く事を決めたわ」
白石先生は俺と先輩の方を向き、残念そうにいう。
「え?」
「そうなんですか?」
俺と師匠は顔を見合わせながら言う。
「そう、本人が行きたいと言うのを止める事は出来ないしね。それに決めた理由が、雅茂の紹介ではない事も分かったしね」
「あんなにもめたのに……決まるのは一瞬だな……」
疑いまで掛けられた師匠は疲れたようにいう。
「第一、本人に会いに行った時、私も同行していたのよ。もし工学科を選んだりされたら逆の立場だったかもね」
「えっ? そうなんですか?」
俺が師匠の方を振り向くと師匠はそっぽを向いていた。
……だからあの時、心底嫌な顔をしていたのか……
「残念ねぇ……工学科にきたら、うちの研究室でAI搭載型のOSの研究をしてもらいたかったのに……」
白石先生の研究室では、毎年シグマで使用されているOSの開発を行っている。
シグマの管理をしている修が所属している研究室だ。
工学科はもっぱらハードウェア寄りの研究が多い。
昔で言うなら、電子技術科と呼ばれるような学科に相当するだろう。
ただ、それとは違うのはOS周りなどの開発研究も行っているところだ。
そして、それらの上で動作するシステム・アプリケーションプログラムを作っているのが、俺達、情報技術科の学生なのである。
「それにしても、突然なんでうちの科にしたんだろう?」
「本人曰く、『この学校の学生に話を聞いていってみたくなった』……との事だわ」
さっきまで師匠が座っていた椅子に腰を掛ける白石先生。
当然、師匠の服をつかんだままで……
「なんていい加減な……」
「というか本人としては、熱心に勧誘して来る各研究室に悪いと思っていたので、なかなか決められなかったというのもあるみたいね」
「昨日会って話したが、本人は人工知能研究をこの学校で継続できればいいと言っていた」
……謎だ……どうしてもそれだけが謎が残る……
どうしてこの学校でなくてはならないんだろうか?
それがこの時俺の頭にあった疑問だった。
「技術科に来る事になったら、大変ねぇ秋野君」
俺も見上げる様にして、白石先生はちょっと意地悪な表情でいう。
「へ?」
思考を遮られた俺は間抜けな返事をしてしまう。
「そうだな、また研究所に入るためのライバルが増えるわけだからな……」
師匠もうなずいている。
……そーいえば、そういう説もある……
思わず愕然となってその場に立ち尽くす俺。
「まあまあ、秋野君なら大丈夫ですって、だって雅茂が指導しているんですもの」
俺の様子に白石先生は慌てて取り繕う。
「おっそうだ、それで思い出した。時堂さん」
師匠は俺の隣に立っている先輩に呼んだ。
それにうなずく先輩。
「時堂さんは、来年度より研究所への入所が決定しているが、研究はこれまで通りシグマを使用する事になった」
「えっ?どうしてですか?」
「研究所の方で、シグマと同じシステムをまだ準備できていないんだ」
今のシグマのシステムは、1年ほど前に全面改修されたばかりだ。
恐らく研究所ではシグマの前のシステムが使用されているためだろう。
「そこで研究はここで継続する事になった」
「ここって、この研究室でですか?」
俺の言葉ににっこりとした表情で頷く先輩。
「それじゃ……また、お世話になります。先輩」
はっきり言って俺は嬉しかった。
また、先輩と一緒に研究が出来る事が。
この半年ほどの間、先輩は忙しい自分の研究の合間に俺の研究を見てくれた。
喋らないけれど、やさしく丁寧に教えてくれた。
いつも先輩にはお世話になりっぱなしである。
「それじゃ、そういう事で、席は今迄通りの机を使用してくれてかまわないから」
それだけ言って師匠は本棚の向こうに行ってしまう。
……勿論、白石先生というオプション付きで……
「いい加減に放してくれませんか?」
「もうちょっと話に付き合ってくれてもいいじゃないの?」
……頑張れ師匠……
俺は心の中で応援すると、自分の机に持っていた物を投げ出した。
……講義が無くなったせいで気が抜けちゃったな……
今日の午前の講義はあれだけだったので、後は午後になるまで何も無い。
椅子に座った俺はぼんやりとしたまま、散らかっている机を見ていた。
……なんか忘れているような気がするんだけどな……
その俺の思考は長く続かず、次に気がついたのは先輩が昼食を食べに行きましょう(声には出さなかったけど…)、と起こしてくれた正午であった……
★
「今日も一日ご苦労さんっと……」
俺は2日ぶりに我が家に戻ってきた。
といっても寮だけど……
俺がいる寮は、施設から少し離れたところにある。
それでも、徒歩10分と言ったところだろう。
2階にある俺の部屋のベランダからは施設の建物が見えるくらいだから。
ちなみに、この寮の庭を挟んだ南側に女子の寮がある。
当然、高い塀と鉄条網が引かれているが……
こんなに近いなら帰って寝た方が良いじゃないかと思われるだろうが、ここで寝ると次の日まで眠り続けそうなので施設で寝ているのである。
「さて……」
俺は手に持っていたバックを壁に立てかけると、机の横においてあったPC端末の電源を入れる。
……2日戻って来なかったからメール溜まっているだろうな……
メールを見るくらいならテレビでもできるこの時代、PCをつかっているような人間は、一部の人でしかない。
起動したPCで、2日分のメールを取り込んでおく。
「結構、たまっているな……」
取り込まれてゆくメールの一覧を見ながら呟いた。
「あれ?」
その中のひとつに、見知った名前のメールを見つけた。
『秋野 春美』
……母さんか……
俺はそのメールを開封した。
修一郎へ
元気ですか?
研究のほうはどうでしょう?
春休みはこちらに戻ってくるのでしょうか?
返事をお願いします。
と書かれていた。
「……」
俺はこの文面で母さんが別のことを言っていることを悟った。
「そっか……もうそんな季節なんだね……」
ふと窓の外を見ると、昨日降った雪は既にほとんど溶けてしまっている。
桜の木は元の姿を取り戻していた。
季節は、春を迎えている。
一時の冬の再来もあったが、確実に春だ。
「……そうだな……」
俺は椅子に腰を下ろし、母さんからのメールに返事を手早く書いて送信する。
そのほかのメールについても読んだり、返事を書いたりしているうちにまた眠くなって来た。
「寝よう……」
俺はそのまま机の隣にあるベットに倒れ込むと、そのまま寝付いてしまった。
★
鳥の歌声が吹き抜けるような空へと消えて行く……
目の前には、大きな桜の木が身にまとっている花びらを散らせている……
この世界(ばしょ)は春……
過ぎ去った白い世界の季節の次に訪れる時……
その時もまた流れ終わろうとしている。
でも、この場所は違う……
たとえ季節が幾ら巡ろうとも、この場所を覆う白い霧は晴れることがない。
ここは遠い記憶の中にある一場面……
それは晴れること無い霧の中に……
★
「そうか、春休みは実家に戻るのか……」
翌朝、俺は研究室で師匠と話をしていた。
「はい」
俺は母さんからのメールの返事に春休みより実家に帰ることを伝えた。
実のところ、ここ半年ぐらい帰っていない。
この前に帰ったのは夏休みだったと思う。
それも、2日くらいしか滞在していない。
「いつくらいまで、向こうに帰っているつもりだ?」
師匠は手にしていたたばこを灰皿に押しつけた。
「春休み最終日、4月10日までいるつもりです」
俺のその言葉に、師匠は軽く驚いて見せた。
「ずいぶんと長いな……ひょっとして俺の研究中断令を真に受けたのか?」
「……冗談だったんですか?」
仏頂面で訪ねる俺。
「いや、冗談ではないが、そこまで強制する気は無かったんだがな……」
申し訳なさそうにつぶやく師匠。
「いいえ、どちらにせよかまいませんよ。研究も煮詰まってましたから、ちょうどいい機会ですよ」
「わかった。実家でゆっくりしてこい」
師匠は頷きながら言う。
「それじゃ、今日でちょうど講義が終わるのでそれが終わったら帰ります」
「ああ、気をつけてな」
「はい」
俺は返事を返すと、師匠の机から離れて、先輩や川野辺がいる大机の方に移動する。
「藤下さんに見捨てられて遂に実家に強制送還か?」
開口一発嫌みを言ってきたのは、もはやお約束、川野辺である。
俺はその台詞を意にも介さず、聞き流した。
それよりも、昨日の形相の事が聞きたかった。
「ところで昨日はなんか気に障ることを言ったみたいだな、一応謝っておくよ……ごめん」
といって軽く頭を下げる俺。
その行動に意外な表情で俺を見つめる川野辺。
「え、いや……別にいいよ。あたしも思いっきり殴ったし……」
何故か罰の悪そうな表情になる川野辺。
いつも殴っていてもこんな表情をすることはない。
よほど昨日の言葉に何かの意味があったのだろう。
あえて理由を聞く必要がないと判断した俺はそこで話を打ち切ることにした。
「とりあえずしばらくここを離れるから……あとよろしく」
それだけ言って俺は、講義に向かうため研究室を出ていこうとする。
「あ! ちょ、ちょっと待って!」
ドアに手を掛けた俺を川野辺が呼び止める。
「ん? まだなんかあるの?」
ドアノブに手を掛けたまま振り向く俺。
「いや……いい……何でもない……」
それだけ言って俺から視線をはずす。
その横顔は複雑な表情をしている。
何かを俺に相談したいのかもしれないが、たぶん俺では役不足な気がした。
「何か相談があるなら、先輩か、森村さんにでもしたらどうだ?」
「……そうする……」
川野辺の呟きを聞いてから俺は研究室を出て行く。
★
2日後……
俺は芽吹き始めている丘の上を歩いていた。
吹く風はまだ冷たい。
春が来ているとはいえ、風が暖かみをますのは4月に入ってからだろう。
特にここは施設のある場所より少し北の地域にある。
桜もまだ5分咲きくらいでまだまだ満開とはいかない。
その丘の上の小道を俺は、一人で歩いていた。
左手には白い百合を携えていた。
あのあと、講義が終了してすぐ荷物を寮に取りに行き、そのまま電車に乗った。
そして、その日の夜の内に実家の最寄り駅まで着いていた。
しばらく歩いていると、老夫婦が上の方から降りてくるのが見えた。
向こうが会釈をしてきたので俺も軽く頭を下げる。
実家に着いて次の日はこの百合の花を手に入れるために花屋をまわった。
季節はずれだったのか、なかなか手に入らなかったが、根気よく探して何とか手に入れる事が出来た。
そして、今日その花を持ってこの山道を歩いている。
俺の目の前に白い色をした石に囲まれた小さな土地が現れた。
その中には規則正しく平たい石が並べられている。
俺はその囲みの中にはいると、一つの石の目の前に立ち止まる。
「久しぶり……」
俺はそう呟いた。
どこからともなく静かに風が再び吹き始めていた。
「あれから何年経ったかよく覚えていないよ」
手にしていた白百合をその前に置く。
白百合はそよ風に揺らされて、さらさらと音を立てている。
「……ここはいいところだな……」
石に背を向け俺は周りを見渡す。
視線の先には、遠くまで広がる町並み……俺が育った町が眼下にあった。
遠くまで見渡せる丘の上にこの場所はあった。
しばらく眺めていた俺は再び石に向き直る。
「……俺が次に来るときは、約束を果たしたあとだ……お前の願いを叶えること、それが俺の今の願い……」
そして俺は一歩下がり、呟いた。
「じゃ、次に来るときこそは約束を必ず果たしてから来る!」
強く呟くと俺は石に背を向けもときた山道を下り始める。
――――次に来るときは……必ず!
野から吹き上げる風を受けながら静かに……静かに眠るあいつのために……
―霞― 了
Doubles Top