桜は咲き乱れ、白きかけらは蒼白の空に消える……

白く輝く雪は大地から消え行き、花は野山を染め上げる。

相反するその二つが一緒にあなたに舞い降りたとき……

あなたはどうしますか? 

白きかけらの運命をまとった花を見つけたら……


Dobules
         風野 旅人

第一話 桜雪の季節に ―桜―

  ぐー……

 穏やかな陽射しに照らされて俺は机に突っ伏していた。
 窓からあふれ出ている光は教室の真中まで届いている。
 その窓の先には、この施設のシンボルとも言える桜の大樹――皇樹という名があるらしい――がその身に満遍なく花を纏っている。
 そよ風に吹かれた桜の花びらが、教室の窓のまで届こうとしている。

 冬の様相は消え、季節はすっかり春である。

 こんな陽気にただただ板書を書き写すだけの頭を使わない単調な講義では誰でも眠くなるものだ。
 実際、寝ているのは俺だけではなかったし……

 といっても一番前の席に座っていながら居眠りをしている俺に、講師は青筋を立てていたが……

 俺と机の間には講義の前半までの内容が書き写されたノートがある。
 後半の内容は、既に目の前のホワイトボードにも無い。

 ……まあ、後で何とかするか……
 俺はのんびりと思いながらまどろんでいた。

 今は講義と講義の間の休み時間だが、次の講義もここで行われるので移動する手間がない分寝ていられる。

 …………
 …………
 …………

「……おいっ!」
 うん? 
「起きろよ! 修一郎!」
 気持ちよく寝ていた俺を起こす奴がいる。
 なんて間の悪い奴なんだ……
 そう思いながらも俺は体を起こし、渋々俺の眠りを妨げた張本人に体を向ける。

「……何のようだ? 恒哉……」
 体を起こした俺の目の前には、ぼやけて見える恒哉が立っていた。
「寝ぼけているな……視点があっていないぞ……」
 呆れ顔で俺を見下ろしている恒哉。
「視点が合っていないのは、眼鏡が無いからだ……」
 俺は教科書の上に置いてあった眼鏡を掛ける。
 篠崎恒哉……この学校に入ってからの、一応俺の友人だ。
 俺と同じく、眼鏡をかけているが、顔はほっそりしていて整っている。
 顔等の容姿だけ見れば、十分女性に受けるのだが、如何せんその性格に問題がある。
 変わり者と言う意味では俺とタメを張っているかもしれない……自分で言うのも少々悲しくなるが……
 いつも出所の知れない情報を持っていて、俺やその他の友人に提供している。
 そのほとんどは、どーでもいいような情報や怪しげな情報ばかりだ。
 だが、それらの情報の内容は意外に正確で、時にはかなり詳細に情報を持っていることもある。
 稀に、重要な情報もあるので、それなりに友人達の中では好評を得ている……と思う……
「……それにしても、さっきの講義はずいぶん良く寝てたみたいじゃないか……講師の先生が顔に青筋立てていたよ……」
 今俺が座っている席は一番前、つまりすぐそこが、先生が先ほどまで教鞭をとっていたところだ。
 本当に先生のすぐ目の前で眠りこけていたわけである、我ながらなかなか根性が座っていると思う。
「どーせ、おまえも寝ていたんだろ。人のことが良く言えるな……」
 俺の言葉に恒哉は首を振り、
「僕は君と違って夜良く寝ているから、講義中に寝る必要がないからね」
 などという。
「……はいはい、俺は夜更かししていますよ……」
 俺は、ふてくされたような調子で返事を返した。
「で、恒哉、おまえがここに来たということは、なんかまた情報を仕入れたんだろ?」
 恒哉は、良くぞ聞いてくれましたとばかりに、顔を輝かせた。
「いや〜、修一郎にはあまり関係ない話だと思うんだけどね。修一郎がどうしてもというなら、教えてもいいんだけどね……」
 これである。恒哉はいつもこうやってもったいぶった言い方をするのだ。
 これでは、恒哉がその容姿の割にあまり女性受けしないのもわかる気がする。
 本人にはあまり自覚がないようだが……
 俺は、恒哉のほとんど決まり台詞と化したその言葉を身も蓋もなく、
「どうせ最後には、話すんだからさっさといえ」
 俺の言葉にも恒哉は気分も害した様子もなく、自分の腕にはめてある時計を見ながらいう。
「そうだね、時間もないことだし……」
 俺は、自分の腕時計ではなく目の前の教壇の上に備え付けてある時計を見た。
 あと5分もしないうちに次の講義が始まってしまう。時間はあまりない。
「それじゃ、手短に話すよ」
「ああ……」
 俺はまだ寝ぼけている頭で、あいまいな返事を返した。
「来年度から、新しくここの科に学生がくるらしいよ」
 そのこと自体には、なんの変哲も無いことだ、この学校は2年からの編入を認めているからだ。
 この学校は、各自の研究開発に必要な知識を1年で習得し、2年からは実際の研究を行う、というのが基本的な流だ、その為、他の研究施設や学校等から研究を目的として編入をしてくるものがいる。
 珍しくも無いことを恒哉が言うということは、よほどの人物がくるということなのだろう……
「……で、この学校では珍しくも無いこと、おまえが言うからには、相当珍しいのがくるんだろうな……」
「ご察しの通り、何でも高度電子情報処理研究所の才女らしいよ」
 高度電子情報処理研究所、通称・SAI研、コンピュータによる人格形成を主な研究テーマとしている研究所だ、世界各国のその手の天才が集まってくるといわれている。
 普通の研究所ではとても行えないような、かなり大規模な研究を行っていると聞いたことがある。
 複数の大手企業がバックに付いているため、研究資金や生活に困ることはない。
 はっきりいって研究者にとっては夢のような環境には違いないのだが……
「SAI研の才女? 、なんでまた、そいつこの学校に来たんだ? そのまま研究所に残っていたほうが、研究や生活も心配無いのに……」
 恒哉は、首を傾げ、
「そこまでは、さすがの僕でも分からないよ。ただ、何かの研究のために必要なものがここにあるんじゃ無いの?」
 と、いつもの詳細に情報を持っている恒哉らしからぬ台詞を吐く。
「ところで、いつから来るんだ? 編入生?」
「3月末って話だから、もうそろそろじゃないの?」
 恒哉は、何故か顔をにやけさせながらいう。
「なにニヤニヤしてるんだ?」
「何って、それはもちろん、その編入生が来るからだよ。いやぁ〜楽しみだな……」
 恒哉はその表情のまま、次の講義のための教材を机の上に広げ始める。
「どうして?」
「……修一郎……謎の転校生、それも有名な研究所の才女、そしてこの季節! とくれば美少女じゃないはずはない!!」
 恒哉は俺に向かってろくでもない妄想を力強く断言した。
「あっそ……」
 思わずつぶやく俺。
「楽しみだな……」
 あっ、遠い目してるし……
 いちゃってる恒哉はとりあえずほっといて……
 編入生か……確かにどんな人が来るかは楽しみだな。
 SAI研ということは、人工知能の高度研究をしていた可能性が高い。
 それだったら、俺と研究をいっしょにしてもらいたいな……
 などと考えてると、次の講義の先生が教室に入ってきた。
「おいっ、恒哉! 空を遠い目で見てないで、さっさと講義の準備したほうがいいぞ」
 俺は春の青空を見上げたまま固まっていた恒哉の肩を叩き、自分も講義の準備を整えた。
「あっ……ああ! 僕としたことが思わず想像の世界に旅立ってしまった」
 恒哉は、正気に戻ったかのように慌てて先程鞄からとり出していた講義の教材を机の上に広げ直した。
 ……いつもの事だろうが……
 俺はため息をつきながら、講義を始めた先生の方に向き直り、講義を聞き始めた。
 今日の午前の講義はこれで終わる、昼休みは研究室にいこうかな……
 お師さんに研究の現状を報告しなければならないしな。
 ……にしてもやっぱり眠い……



 俺は食堂でカレーを食べている。
 講義中に寝ていようが、何してようが腹は減るものである。
 パカパカと口の中にカレーを放りこみながらあたりを見渡した。
 周りは昼休みで飯を食いに来た者達でごったがえしている。
 俺の座っているテーブルの横は、丁度セルフサービスでお盆に食事を乗せて席を探している人の通り道のなっていた。
 スプーンを口に運びながらその列を何気無しに見ていた俺は、その列から知っている顔を見つけた。
「時堂先輩」
 俺が声をかけた女性は、こちらに気付きにっこりと微笑んだ。
 時堂威沙先輩、俺の所属している研究室の先輩だ。
 多分、この学校で人気投票を行ったら間違いなく1・2位を争う女性である。
 他の者が言う限り、ミステリアスな雰囲気がいいと言っている。
 だが、本人はそういうのを鼻にかけた様子はなく、滅多に女性と話すことがないような俺でも気軽に話せる女性である。
 研究発表も終わり、卒業に向けて準備を始めてるころのはずだが……
「今日はどうしたんです? 研究発表も終わったんですから、ゆっくりしてもいいんじゃないですか?」
 先輩は俺の目の前に盆を置き、椅子に腰をかけると微笑んだ顔のまま静かに首を振る。
「そうですか……確かに、研究発表終わっても論文がありますし、それに先輩の場合は、この学校の研究所に入る事が決まってますものね」
 この学校の場合、研究発表での評価がトップならば上位の研究施設への入所が認められる。
 先程の『SAI研』程ではないが、そこそこのレベルの研究所だ。
 他校からの編入が多いのもそれが一因となっている。
「ところで、先輩は研究所に入っても、今の研究を継続するんですか?」
 俺言葉にうなずき、目の前に置いた定食に手をつける先輩。
 先輩の研究はDNWOS(ダイナミック・ネット・ワーク・オペレーティング・システム)の開発についてである。
 日進月歩どころか秒進分歩の発展を遂げる巨大なネットワークシステムを担う為、先輩が研究していたシステムだ。
 通常のシステムでは、ネットワークの再構築は人の手を必要とするが、それをOS自体に自動的に再設定・再構築を行うシステムを搭載したものだ。
 20世紀末でもそれに近いシステムは存在したが、結局は最終的には人間の手を必要とした。
 その作業を省き、有機的にネットワークを構築できるシステム……まさにこの時代では究極のOSともいえるだろう。
 その研究が認められ、時堂先輩は研究所に入れるようになったわけである。
 一応、俺もそれを目指して研究をしているわけだが……
「……とりあえず、俺は既に始めてから半年経ちましたけど、目標はとりあえず到達しましたけどね……」
 通常は、研究は2年になってからだが、俺は師匠を拝み倒して、半年ほど前から研究を開始していた。
 とりあえず当初の目標はほぼ突破したが、まだ満足ができるレベルからは程遠い。
 俺の言葉に、時堂先輩は、先ほどからの微笑みを崩さずに、
「秋野君……まだ一年あるんですから、これからですよ」
 と、口をようやく開いた。
 先ほどから、先輩は口を開いてはいなかったが、別にしゃべれないわけではないのだ。
 必要なこと以外は黙して語らず……そういう人なのである。
 だから大抵、先輩の受け答えは身振りのみだ。
 言葉を発すること自体珍しいかもしれない……そーいえば、俺がこの前聞いたのは一月ほど前だっただろうか……
 ある意味変わった人といえば変わっている人なのだが……
 如何せんその容姿のほうがクローズアップされ、さらに研究所入りが決まったとなれば、『知的で美人のおしとやかな人』となってしまうのは仕方がないことだろう。
 ……まっ俺も初めて会ったときにそう思ったのは確かなのだが……
「やれるだけがんばりますよ、俺……そのためにここにきたんだから……」
 俺の言葉に先輩は満足そうにうなずいた。
 俺はカレーをたいらげると、食器を返却口に返し、給茶器からお茶を自分の分と先輩の分を運んできた。
 先輩の目の前にまた座り直す俺。
 それを周りの人たち(特に男、たまに何故か女子も見受けられるが…)がうらやましそうに見ていたりする。
 そりゃそうだろう、人気抜群の女性と気軽に話しをしているなどということは、研究室がたまたま一緒で、先輩がこーいう性格でなければとても俺には実現不可能だろう。
 はっきりいって奇跡と言っても過言ではないだろう。
 ちなみに、こうして先輩と話していると必ず現れるやつがいる……
「修一郎!」
 来た来た来た……
 定食の乗ったお盆を抱えて、先輩の後ろから現れたのは、恒哉である。
 いったいどこから嗅ぎ付けてくるのか、俺が先輩と話しているといつのまにか現れるのである。
 図々しくも、先輩の隣の席に腰を下ろす恒哉。
「修一郎……みんなのアイドルを独り占めしちゃだめっていつもいっているだろう……」
 みんなのアイドルね……俺がどんな女性と話していても、『みんなのアイドル』といっているような気がするんだが……
 恒哉にとっては俺と話す女性はみんなアイドルなのかもしれない……なんだかかなり女性に対して失礼なような気もするが、黙っておくことにする。
「修一郎、食べ終わったなら早くいけば? 研究室にいかなくていいの?」
 恒哉は俺を追い立てるようなことを言う、いや実際追い立てているとしかおもえないのだが……
 ……こいつはいつも、こんな風に話を持っていこうとする。
 とりあえず、恒哉の言うことはもっともではあるので、俺は湯飲みを返却すると、
「先輩……俺、用があるので研究室にいきます。それじゃ、また」
 といってから、先輩と恒哉が座っているテーブルを離れた。
 先輩はこちらを向き、いつもの笑みを浮かべた顔でそっとうなずく。
 俺は食堂の出口の扉を開き、研究室棟に向かって歩き出した。
 出る前にちらっとテーブルの様子を見てみたが、恒哉が何やら先輩に話し掛けていたが、先輩は微笑んだままうなずきを返しているだけである。
 ……恒哉……相手にされていないの気づけよ……
 俺は、先輩の態度にお構いなしに喋り続ける恒哉に心の中で呟いた。



「おーい、師匠居る?」
 俺は藤下研究室と書かれたドアをあけた。
 研究室の中はとても整理されているとはいいがたい様相を呈している。
 普通の人が見たらはっきりいってごみに見えるようなものが部屋のいたるところにうずたかく積んである。
 そういえば、前にこの研究室を希望してた人が来たとき、「これはゴミですか?」と積んであった段ボール箱さしながら師匠にいって、おいだされたっけな……哀れな奴である。
 ここでは、『これはゴミですか? 』は禁句だ。
 師匠のコレクションには違いないのだから……
 といってももうちょっと整理してもらいたいものではある。
 これから、研究生がもっと増えるからだ。
 今までは、俺と時堂先輩そして先輩の同期の一人くらいだったが、今年は、俺を含めて5人ほどがここを希望しているという。
 俺は、既に研究を始めてしまっているので、枠は一人埋まっている。
 あと4人が来たらそれこそ、人のいる場所どころか足の踏み場もなくなる。
 その4人の内一人は女性なのだが……とても整理とはかけ離れた性格の持ち主なのである。
 これについては多くは語るま……

 バシィィン!

「のあっと!?」
 俺は後ろからいきなり背中をどつかれ、バランスを崩した。
 よろけてそのまま床につっぷしそうになったが、とっさに入り口の壁を掴んでいたので倒れることはなかった。
「なに入り口につたってるんだ? 邪魔だぜ!」
 壁に体を支えてもらっている俺の後ろからがさつな口調の女性の声がする。
 俺が知っている声だが、ここはあえて無視する。
「おーい、師匠いないのか?」
 俺は再度、師匠の所在を確かめるべく研究室の入り口から師匠を呼ぶ。
 もちろん、入り口を塞いだまま……
「秋野、無視するなよ」
 ここで、俺は後ろに気付いたふりをする。
「あっ、川野辺いたの?」
 後ろを振り向くと、不敵な笑みを浮べた女性が立っている。
 この研究室への入室希望者の一人、川野辺瑠璃だ。
 髪をショートカットにまとめ、大きな瞳を持った利発そうな顔質をしている。
 体格は言葉づかいに似合わず、それほど大きいというわけではないが、それでも平均的な女性の身長から比べたら高いほうかもしれない。
 年齢がもう少し若ければおてんば少女という言葉が似合いそうだが……
 川野辺の場合は不良少女といったほうが正解かもしれない。
 性格はがさつ、それ以外に川野辺を性格を表現する言葉を俺は知らない。
 先程のように不意討ち、闇討ちはお手のもの、おまけに大嘘つきである。
 まあ、闇討ちはいい過ぎかもしれないが……
 大嘘つきだけは、間違いない。
 こいつの大嘘には、俺と恒哉が何度も被害にあっている。
 特に恒哉に対しては、『校舎の裏で女の子がおまえを待っている』とか『屋上で……(以下同文)』などと嘘をよくいっていた。
 それを真に受けて、ホイホイと飢えたゴキブリの如く、走っていった恒哉も恒哉だが……
 情報通で知られる恒哉も『自分を待っている女の子』と言う言葉には惑わされるらしい。
 ちなみに俺の場合は……いや、よそう思い出したくもない。
「藤下さんならいないぜ、確か会議とかいっていたけどな」
 川野辺は、俺を押しのけて研究室に入って行く。
「これだけ呼んでも返事がなければ、そうだろうな」
 川野辺のことだからまた嘘かもしれないが、とりあえずここにはいないことは明らかだ。
「しかしこの部屋はどうにかならないのか?」
 さすがの川野辺も、この研究室の様相に呆れているようだ。
 実のところ、時堂先輩が研究室に頻繁にいたころは、それほどでもなかったのである。
 ところが研究発表が終わり、先輩があまりこなくなった途端、状況は悪化の一歩をたどり……今の状態に至ったわけである。
 俺もたいして片づけはしていなかったし、師匠はどこからともなくモノを集めてくるし……
「ならん」
 俺は即答で答えた。
「あっそう」
 俺の答えに川野辺はあまりに気にした様子もなく、手近にあった本を開きながら、別な話題を繰り出してきた
「ところで、編入生の話し聞いたか?」
「ああ、1限目の講義の後聞いた」
 この会話では、誰から聞いたが出てこないが、恒哉であることが間違いないのであえて言ってはいない。
 編入生の情報など、集めてくるのは恒哉ぐらいなものである。
「SAI研の才媛か……どんなのがくるんだろうな……」
「まっ川野辺とは違うタイプだろうな」
 この川野辺瑠璃と言う人物、みかけはこうだが、実はかなりの頭脳の持ち主である。
 才能だけで言えば、俺なんか足もとにも及ばないだろう。
 ただ、性格がこうなためあまり評価はされていないようだが。
 川野辺の場合、才色兼備と言うより、才猛兼備と言ったほうがいい。
「ほほぅ……それはどういう意味かな?」
 あっ、川野辺が薄笑いを浮べてこちらをにらめつけている。
 後で、どつかれるのやだからこれくらいにで止めておこう……
「ところで、川野辺は研究、何をやるんだ?」
 今度は俺のほうから質問を変えた。
「あたしか? とりあえず4月末までに決めるけど、今迄専攻していた画像処理の応用研究をやろうかと思ってる」
 川野辺がこれまで専攻していたのは、CGにより人の顔の表情やしぐさなどを再現するシステムの開発だ。
 といっても、この分野の研究は既に20世紀末には盛んに行われてきた。
 川野辺の場合は、それをより人間らしくするシステムを作ろうとしている。
「かなり難しいのはわかっているが、とりあえず今はこれをやってみたいんでね」
 開いていた本を机の上に戻し、俺のほうに向き直る川野辺。
 その表情はいつもとは違い、和やかな雰囲気でさえ醸し出している。
 いつも思うのだが、川野辺は研究の話をしているときが一番楽しそうにしている。
 嫌いな講義はとことんサボり倒しているが、自分に必要な講義については真剣そのもので臨んでいる。
 人は、見掛けによらない、といういい例だろう。
 普段からこうならば、非常にいいのだが……
「そう言えば、秋野、藤下さんに何の用だったんだ?」
「あっ、ああ、研究の状況報告だ。昨日から徹夜でやった分の報告をな……」
 俺は、足の踏み場ももはや存在しない研究室に、無い足場を無理矢理作り近くに有った椅子を引っ張り出した。
「おまえはいいよな……研究を既に半年もやってるなんてな。もう目標は大体到達したんだろ?」
 山野辺は恨めしそうに俺を見ている。
「まっ日頃の行いの差だな」
 俺は引っ張り出した椅子のほこりを払い、それに座った。
「それに、目標は到達したといっても、本当の目標には到達はしていないんだからな……」
 本当の目標……か……
 自分でもそんなものが作れるのかでさえわからないシステムの開発……
 その基本システムを半年で一応のレベルまでは作り終えた。
 とりあえず、これが当初の研究の目標だった。
 だが、作り終えたあと、やはり不満が残った……
 やはり、最終目標には程遠い……
「秋野……秋野の目標は高すぎる。できなくてもしょうがないぜ」
 俺の表情が曇ったの気付いたか、珍しく川野辺が困った顔をする。
「まっ、目標は目標だからな、でも、できなくてしょうがないであきらめていてもしょうがない」
「そっか……おっ、そうだ!」
 そこで何か思い付いたらしく川野辺はポンと手を打つ。
「これから来る噂の編入生とやればいいじゃないか……とでも言いたいの?」
 川野辺が思い付きを口に出す前に先手を取って言う俺。
「……付き合いの悪い奴だな。そういうのは普通、相手が言ってから突っ込むもんだぜ……」
 心底嫌な表情を浮かべる川野辺。
「川野辺が単純な発想しかしないからだ、そんな誰でも思い付くようなことを」
「それもそうだ、大体研究室がこのありさまじゃね……」
 川野辺は視線をゴミ……もといジャンク品の山に向ける。
「ほんとに何とかならないのかね〜」
 ため息を吐く川野辺は、椅子から立ちあがり研究室の窓のブラインドをあけ、外を眺める。
 研究室の窓は南に面している、ちょうど花などが植えられている庭が真下に見える。
 例年より桜は早く咲いているが、ほかの草花が咲くのはもう少し先だろう。
「外は良く晴れて気持ちいいな〜」
 川野辺は窓際に立って背伸びをしている。
「今日の天気は、4月下旬くらいの陽気らしいからな」
「なあ、秋野……」
 不意に外を眺めていた川野辺がこちらを振り向いた。
「うん? なんだい」
 俺は顔を上げたが、窓際はちょうど日が射している方向なので、逆光で川野辺の顔がよく見えない。
「……早く研究始まらないかな……そうしたら……」
 ……と、いつもの川野辺らしからぬ口調で呟いていた。

            


 俺はあの後、暫く師匠が来るのを待っていたが、昼休みの終わり近くになっても帰って来なかった。
 仕方が無く俺は、次の講義の場所に移動するために、川野辺がいる研究室を後にした。
 ちなみに、川野辺は次の講義はとっていないので、研究室で資料を見ている。
「うわぁ〜、ちょっとまずいな、このままじゃ次の講義に遅れる!」
 師匠をギリギリまで待っていた俺は、廊下を全力で疾走していた。
 次の講義は、出席にかなりうるさい講師だ。
 ちょっとでも遅れると出席が貰えなくなる。
 急がなくては!
 ちょうど俺が走っている針路の廊下には人がほとんどいない。
 全力で走っても人に体当たりをかまさなくてすみそうだ。
 そして俺が廊下の角を曲がったとき、俺の目の前に次の講義の講師の背中が見えた。
 しめた! まだ間に合う!
 そう思い俺は更にスピードを上げて、その背中を追い越し、教室に飛び込んだ。
「セーフ……」
 俺は息を切らしながら、手近な空いている席を見繕ってそこに座る。
 入り口が後ろ側だったので、席は後ろの方になってしまったが、とりあえず講義には支障はない。
「修ー郎、またギリギリだね」
 俺が席に着いたとき、俺のとなりに座っていた男が声をかけてきた。
「師匠待っていたらこうなった」
 俺は背中に背負っていた鞄から講義に必要な本を急いで取り出した。
「藤下先生居なかったの?」
「ああ、川野辺曰く、会議らしいが」
 俺が、鞄から本を取り出している間に、俺が追い越してきた講師が教室に入ってきた。
 結構年がいっているその講師は、教室に設置してあるホワイトボードに講義の内容を書きいれていく。
 ……と思いきや……
 『本日休講』

 がったん!

 その文字に俺は思わず机に突っ伏してしまった。
 ……なんだよ……それは!?
 講師がその文字を書きいれたと同時に、教室内はざわめき始めた。
 それはそうだろう。
 来たかと思ったら、突然休講なんて書くんだからな……
 それにこの講師、使いもしないのにご丁寧に、講義に使う本を持って来ているし……
 まったく……全力で駆けてきた俺の身にもなって欲しいものである。
 ホワイトボードにそれを書いた後、講師はこちらに向き直り、
「緊急の会議が入ったため、この講義は休講とします。ただし、今この教室に居る者には出席を認めます」
 という。
 その言葉を聞いたとたん、既に教室から出ようとしていたものたちが、一斉に席に戻った。
 ……まじめに来るものだな……
 その後、取りあえず出席を取り終わったその講師は、足早に教室を出ていった。
 何の会議だが知らないが、相当慌てている様子である。
 よほど重要な会議なのであろうか? 
「おい! 恒哉!」
 ちょうど教室から出ようとしていた恒哉を呼び止めた。
「なに?」
 恒哉はこちらに振り向くと、意味ありげな薄笑いを浮かべている。
「……なんだそのいかにもっていう笑いは……」
 俺はその顔に思わず引いてしまいそうになる。
 恒哉はそんなことにはお構いなしに、口を開いた。
「修ー郎、聞きたいことは分かっている、さっきの講師がいっていた会議のことだろう?」
「そうだけど、やっぱり何か知っているのか?」
「まっ、多少だけどね……」
 恒哉は、席が空いた俺の隣の椅子に腰をかけた。
「さっき僕が、話したこと覚えている?」
「SAI研の才女が来るって話のことだろう?」
 俺は机の上に広げてしまった本を鞄にしまいながら答えた。
「何の話?」
 先程俺に声をかけてきた男が、隣から話に入ってきた。
「何でもSAI研からここに編入してくる人がいるんだってさ」
 俺はそちらに振り向き答えた。
 この男は、津江望。
 女性の人気ナンバー1が、時堂先輩なら、男性の人気ナンバー1は、間違いなくこの望であろう。
 いつもにこにこと笑顔を絶やさないという意味では、時堂先輩に通じるものがあるかもしれない。
 ちょっとボケボケしたところがあり、いきなり廊下でこけたり、皆で話し合いをしているときに眠ってしまったりする。
 ただ、運動神経は良いし、背も高く、眼鏡をかけているわけでもないので、女性には非常に人気がある。
 これでもしっかり付き合っている人がいるのだから、驚きといえば驚きである。
 その相手というのも、これも十分望につりあう人なのだが……
「SAI研……? どうしてそんなのころから来たんだろうね?」
 首を傾げる望に恒哉は、
「僕の情報網をもってしてもその理由は分かっていないんだ……ただ、今どうして会議が開かれているか、という理由は知っているよ」
 という。
「どうしてだ?」
 ここで、恒哉はため息を一つ吐いた。
「その噂になっている編入生が、どこの研究室に入れるかで、かなりもめているらしいんだよ」
「はあ?」
「どういうことなの?」
 俺と望は、疑問をもう一度恒哉に投げかけた。
「まっ、言ってみれば研究室同士の権力闘争といったところかな?」
 ……なるほど……
 それだけ優秀な研究生が入れば、それだけ研究用の予算の分配にもかなりの優遇が受けられる。
 予算については、その研究室が受け持つ研究生の人数によって分配されている。
 特殊な研究や、高額の予算が必要な研究の場合でも多少の差が出るくらいだ。
 だが、SAI研からの研究生となれば話しは別だろう。
 今ごろ会議室では各研究室の先生方は、しのぎを削ってその研究生の獲得合戦に終始していることだろう。
 ……恒哉が、ため息を吐きたくなるのも分からないことはないな……
「醜い争いだな……」
 俺は呆れて首を振った。
「どの研究室も予算取りには必死だからね……」
「でも、その研究生もかわいそうだね……」
 と望がいう。
「ん? どうして?」
 俺は椅子にもたれかかり背伸びをしながら尋ねた。
「だって、その編入生自分で研究室決められないんだよ。僕たちは自由に選択することができるのに……」
 それもそうだ。
 その研究生の意志も聞かずにそんな会議をしているとなれば許せない行為だと思う。
「そのあたりは、どうなっているか知っているか? 恒哉」
 俺の問いに恒哉は、
「そのことについては、もちろん本人の意見が最終的な判断になるには違いないんだけど……、ただある程度の目安になる研究室の選定作業なるものをやっているらしいんだよ……」
 と若干顔を曇らせて答えた。
「選定?」
 鸚鵡返しに言った俺の言葉に恒哉はうなずいた。
「そう、つまり貴方の研究にはこの研究室がいいですよって目安をね、でも、この選定作業って立候補制なんだよ。つまり、たとえその編入生の目標に合わない研究室でも立候補できるわけだから、もう会議はシッチャカメッチャカさ」
 と、肩を竦める恒哉。
「立候補している研究室は?」
 と望。
「えっと……確か修ー郎の研究室の藤下研を除いた全部だったはず……」
「師匠……そういうの嫌いだからな……真っ先に辞退したんだろうけど……」
「不毛な争いだね……」
 思わずため息を吐く三人。
 醜い争いもいいところである。たかが研究費のために研究生の取り合いするなんて……
 それより、気になるのはその編入生の研究内容だ。
 今の恒哉の話だと、先生方にはその研究生の研究内容が伝わっているのは間違いないだろう。
 いったいなんの研究をするのだろうか? 
 SAI研の才女となれば当然、あれしかないないのだろうが……
 あれとはもちろん人工知能の類のことだ。
 ……となれば、本当なら俺の研究室に来てもらいたいくらいなんだが……
 別に研究を一緒にやろうというのが目的ではない。ただ、今の俺の研究に必要な部分についてアドバイスが欲しいだけなのだ。
 まっ、いいか。
 別に別の研究室だからって質問をしに行くこともできない訳ではないし。
 俺は気を取り直して、恒哉にその編入生の研究のテーマを尋ねてみた。
「残念ながら……と、言いたいところだけど実は、この緘口令が敷かれている状態から見事この僕が手に入れた超重要情報を今ここに……」
「前置きはいいから……」
 俺は、胸なんぞ反りながら意気揚々と喋る恒哉に口を挟む。
 せっかくの口上を途中で止められた恒哉は不機嫌そうな顔になる。
「これからがせっかくいいところなのに……」
「まあまあ……僕も聞いてみたいから話してよ」
 それを望が宥め、恒哉は不機嫌そうにしながらも口を開いた。
「修ー郎と望のことだから、大体察しがついていることだと思うけど、研究内容はやっぱり人工知能関係らしいよ」
「やっぱし……」
「そうだろうね」
 妙に納得顔でうなずく俺と望。
「ただ……」
 恒哉は言葉を続けた。
「だだ、普通の人工知能の研究とは少し違うみたい」
「違う? 何が?」
「なんて言ったらいいのかな……その人工知能のシステムに別なプログラムを組みあわせるみたいなことを研究したいとか……」
別のプログラムと組み合わせる!?
 ……ますます、うちの研究室に来てもらいたくなってきた……
「その顔だと、うちの研究室に来てくれないかなっておもっただろ!?」
 俺の顔を見ていた恒哉は嫌味そうな笑みを浮かべていう。
「……」
 あえて俺は否定しようとはしなかった。
 その『別なプログラムと組み合わせる』という言葉だけが俺の頭の中に残った。

             


 教室で話を終えた俺達は、それぞれの研究室に戻るため教室棟の階段を下っている。
 3人とも科は同じだが、希望する研究室は違う。しかし研究室は皆、情報棟に集まっているため、向かう方向は同じだ。
 俺達はそれぞれの研究室のことなどを話ながら、足を進めていた。
「ところで、これからどうするの?」
 望が俺と恒哉に尋ねてきた。
 これからか……俺はさっきの講義で今日の講義は終わっているから、特にやることはない。
 研究室に戻って研究を続けようか……
 それよりも……眠い……
「ふぁあああ……」
 俺は思わずあくびをしてしまった。
「その様子だと修ー郎は、昼寝に決定だね……」
 苦笑をしながらいう恒哉。
「徹夜とかあんまりすると体に毒だよ。まだ、1年あるんだから無理しないほうがいいよ」
 と望。
「そうだな、どこか暖かそうなところで、昼寝でもするかな……」
「それでいて、また今日も徹夜する気?」
 心底呆れ返った顔で、俺の先を歩き始める恒哉。
 俺は、歩きながら思いっきり背を伸ばすと、望は? と尋ねた。
「僕はこれから……」
 と望が言いかけたとき、
「望!」
 と元気のいい声が階段に響き渡った。
「やあ、聖華」
 その声に返事を返す望。
 若干小柄な感じのするその女性は、ぴょんぴょん跳ねるような足取りで、望の側に駆け寄ってきた。
「秋野君、篠崎君、こんにちはっ!」
 相変わらず、元気のいい声で喋る人だな……
 彼女の名は、森村聖華。
 この学校で抜群の人気を誇る女性といったら、先ほどの時堂先輩とこの森村さんだろう。
 先輩とは対照的に、いつもハキハキと元気のいい声で、明るい表情を絶やすことがない。
 俺達とは違い情報工学科に所属している。
 この学校に入ってから知りあった望経由で知り合いになった。
 望と同じように、つきあっている人がいるにもかかわらず、アタックをかける人間は絶え間無いという。
 一時期、彼女のメールボックスがラブレターメールで一杯になり、メールサーバがパンクしかけたことがあった。
 まあ、その時はとっさに気付いた管理者のおかげで、パンク寸前で食いとめられたが……
 以来、彼女のメールボックスは、特定の相手からのメール以外を拒絶する設定になってしまった。
 当然の処置だろうが、ちょっとやりすぎなような気がしないでもない。
 その管理者という人が、また偏屈な人で……
 その特定のアドレスの中に入っているのは、先生方・望・時堂先輩と俺、あとその管理者くらいのはずだ。
 ちなみに、恒哉は既に前科者――ラブレターを出しまくっていた――なので、当然はずされている。
 ……つくづく不運な奴……
 そんな彼女であるが、如何せん本人がそういう事にあまり興味が無いらしく、困った顔をするだけでそれを鼻にかけるような態度もとることはない。
 それが、人気の理由なのだろうが……
 そういう意味では、望や先輩に似ているかもしれない。
 ……って……なんで俺の周りにはそういう人しかいないんだ? 
 よくよく考えてみると不思議なことである。
 森村さんは、俺と恒哉に挨拶した後、望と何やら相談をはじめている。
「ところで森村さん、講義は?」
 そこに俺は素朴な疑問を投げかけた。
 この時間なら工学科の連中は、まだ講義中のはずだ。
「講義? あっ、講義なら緊急会議でとかで無くなったの」
『は? 』
 俺と恒哉は同時に間の抜けた声を出した。
 なんで、工学の教員まで技術科の会議に出ているんだ? 
「緊急会議って……もしかして……あっ! そうか!」
 恒哉が何か思い当たったように、手をポンッと打つ。
「多分、科同士で編入生の取り合いをしてるのかも……」
 基本的に、情報技術科は工学科が作ったハードや基本システムを基に、研究を行うことがほとんどだ。
 ハードの上に乗ることになるOSなどに、人工知能のシステムを組み込むなどの話になれば当然、工学科もその編入生受入の対象になる。
 科内部だけではなく、工学科との取り合いとなれば、事態は一昼夜で収束するとは到底思えない。
「……不毛すぎる……」
 思わずつぶやく俺。
「まったく、何やってんだか……」
 恒哉も肩をすくめている。
 それにしても、その編入生とは一体何者なんだろう? 
 今更ながら、そう思った。
 研究室が決まっていないのはわかるが、科自体でさえ決まらないとは……
 当の本人は希望を出していないのだろうか? 
 少なくとも、科くらいは決めてから編入してくればいいのに……
 そうすればこんな科同士の不毛の争いも避けられただろう。
「……それにしても不思議だね……」
 と望。
「何が?」
 自分より背の高い望の顔を、覗き込むような感じで森村さんは振り向いた。
「そうだね……編入してくるならそんな曖昧な目標じゃないはずだよ。少なくとも科くらいは決めているはずなのに……よし! 僕の情報網を使って詳しく調べてみようっと!」
 久しぶりの難題に意気揚々となる恒哉。
「頑張ってね。篠崎君」
「任せておいてよ!」
 恒哉は、森村さんの言葉に胸を張っている。
 その顔が、若干にやけているが、本人は気付いていないようである。
 ……恒哉って根が正直だからな……
「……まあ、その話は置いといて……望、これからどうするんだ? その様子だと森村さんと何かするんだろう?」
 俺は中断していた先程の話に戻した。
「あっ、さっきの話だね。これから聖華とテニスでもしようかと思っていたんだ」
「ちょうど、二人とも講義がなくなっちゃったしね」
 と、うなずき合っている二人。
「今日はいい天気だからな。テニスするには丁度いいだろうな」
 俺は、階段の踊り場の窓から見える空を見上げながら言った。
 相変わらず今日の空は雲一つ無い快晴だ。
「へーえ、いいな……僕も一緒にやりたいな……」
 その横で、恒哉がうらやましそうにつぶやいた。
 ……恒哉、編入生の事調べるんじゃなかったのか……? 
 俺の内心のツッコミを知ってか知らずか、
「篠崎君は、調べものがあるんでしょ? 期待しているからね!」
 と笑顔で言う森村さん。
 この言葉に、俺は一瞬「うまいっ!」と思った。
 案の定……
「そうだよ! そう! 僕には調べものが有ったんだ! 必ず調べるから期待していてね! わかったら真っ先に聖華ちゃんに教えるからね!」
 その言葉に恒哉は有頂天になって、今にも駆け出しそうになっている。
 森村さんにこう言われれば、大抵の男は引っかかるだろうな……
 引っかかる恒哉も単純だが、こんな台詞を自然と言える森村さんも森村さんである。
 森村さんのこういう無邪気で、ある意味無責任な発言に一体どれほどの人が犠牲になったんだろう……
 ……謎である……
 かくして、森村さんはこの一言で、恒哉(お邪魔虫)を撃退したのであった……
「それじゃ、僕たちは行くから……」
「またね」
 望は森村さんを連れ立って、先に階段を降りて行く。
 俺と恒哉は踊り場に取り残される形になった。
 二人の背中が見えなくなった頃、俺の後ろで恒哉が何気なくぽつりと呟いた。
「あ〜あ……なんで僕って、顔はいいのにもてないんだろうな……」
 振り返るとしょげた顔で恒哉は、望と森村さんが去っていった方を見ていた。
 ……恒哉の場合、本当に『顔は』良いので冗談になっていない……
 やっぱり、天は二物を与えないんだろうな……
 世の中、顔だけでもてれば苦労はしないだろうが……
 ……やっぱり性格が良くないと女性に受けないんだろうな……
 俺自身、性格が良いといえないので自戒の念にかられる……
「それじゃ、僕も聖華ちゃんに頼まれたこと調べに行くから!」
 俺がぼんやり考え事をしている間に、いつの間にか復活していた恒哉は、階段を駆け降りて行く。
「おう、頑張れよ」
 俺は力無く声をかけた。
 ……さて、俺もこんなところに突っ立っていないで、どこかに行こう……
 一人寂しく階段の踊り場で、立っているのも虚しいので、階段を下り始める俺。
 とはいうものの、研究室に行っても師匠はいないし、川野辺にいびられるのもやだし……
 どこかで、仮眠を取れる場所を探したほうが良いかな……
 取りあえず、俺は研究室のある情報棟へ歩き始めた。
 ……どこか寝れる場所無かったかな……
 俺は歩きながら、寝場所を考えていた。
 情報棟の近くまで来た時、俺はある場所を思い付いた。
「あそこなら、確か仮眠室があったはず……」
 その場所に行くために俺は情報棟の中には行っていった。

           


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピィーーーー

 俺の目の前の扉は静かに左右に分かれて開いた。
 俺が扉をくぐりぬけると同時に、扉は自動的に閉まり、カチャッという音を立ててロックされる。
 部屋の天井は高く、2階と3階の吹き抜けになっている。
 周りは、マシンのファンの回転音と大型空調設備の駆動音が鳴り響いている。
 それ以外の音は聞こえもしない。
 この部屋の中央には大型のコンピュータが鎮座している。
 この学校のメインコンピュータ・システムシグマだ。
 多数のプロセッサユニットから成る並列型のスーパーコンピュータである。
 どのプロセッサが故障してもその他のプロセッサが処理を続行するシステムを備えている。
 万一の事に備えてそのシステムがここには2基導入されている。
 その主な用途は、学内のネットワークの制御・各研究の処理などである。
 また、外部ネットワークのゲートとしても動作しているので、ここに何かあると学内のネットワークは全て麻痺状態になるだろう。
 この部屋、システムシグマルーム――通称S2Rと呼ばれている――の扉の暗証番号は、先生方と一部の学生しか知らされていない。
 その暗証番号でさえ各個人で違い、誰がいつ入ったのかまで記録されている。
 ここは、この学校内で一番重要な施設には違いないだろう。
 ちなみに、このシステムを制作したのは、この学校の情報工学科の歴代の研究生らしい。
 情報工学科では毎年必ずこのシステムの研究に携わるものを選出しているという。
 今この中で俺の研究のシステムが稼動している。
 部屋に入った俺はしばらくの間、多数のLEDを瞬かせているシグマを見上げていた。
 そこに、後ろで扉が開く音がした。
「おや、秋野じゃないか」
 シグマを見ていた俺に入り口から男が声をかけてきた。
 俺が後ろを振り向くとそこには一人の男が立っていた。
「また、シグマを見に来ていたのか」
 そう言いながら、その男は脇に抱えていたプロセッサボードを手近の台の上に置いた。
「修か……またシステムの入れ替えか?」
 この男、修は稼動しているシグマのプロセッサの一つのセフティーロックを解除し、ボードを引き抜いた。
「ああ、このプロセッサにバグがあるらしいんで、最新のボードに交換しに来たんだ」
 修は、手にしているプロセッサを先ほどの台の上に載せ、先程運んできたボードを変わりに差し込んだ。
 しっかりとロックを行い、プロセッサの起動を確認する。
 彼方修……情報工学科の研究生で、来期のシステムシグマの研究生及びこのシステムの管理者だ。
 一年目からシグマの管理をやっているというかなりの強者である。
 元々ソフト寄りのことを得意としているらしいが、今はハード寄りのことばかりしているようだ。
 今もこうして、問題のあるハードの交換していたりする。
「そういえば、シグマに新しいシステムを乗せるんだったよな」
 俺は、コンソールの前に座って先程取り付けたボードの動作を確認している修に声をかけた。
「そうだよ、まだ未完成だけど、今のバージョン2モジュールに変わる新しいモジュール、バージョン3モジュールに換装する予定」
 修はコンソールに指を滑らせながら、俺の問いに答えた。
「まだ仕様を聞いていなかったけど、どう変わるんだ?」
「CPUのスペック強化と、メモリの容量増量がメインってところかな、あとうちの今年度の研究生が作ったアクセラレートモジュールの搭載といったところか……」
 そこまで言って修はコンソールから体をこちらに向けた。
「これによりS2インターフェースの仕様が変更になる。……といっても上位互換性があるからアプリケーションに変更はほとんど要らんけどな」
 S2インターフェースとは、システムシグマのシステムインターフェース群の総称だ。
 このインターフェースを通してアプリケーションプログラムはシステムシグマをコントロールすることになる。
 S2インターフェースは、その上で動くアプリケーションを作成する者の要望などを取りいれて一定の時期を置いて改版される。
 開発者達はそれを用いてシグマで動作するプログラムを作成を行う。
 現在のS2インターフェースの版数は、10.5版、次の改版で11版になる。
「11版は、ベータテスト中だ。今は要求仕様を満たしているかどうかのチェックが主だがな」
 ということには、もうそろそろ11版は正規版となるのか……
「修、すまないけど早めに11版の新規部分の一覧をくれないか?」
 俺の頼みに、修は、
「そういうと思って、もう既に送ってあるよ。後でメールを見てみな」
 修は、俺と話しながら一覧のデータを俺にメールで送っていたのである。
 相変わらずすばやい。
 この修と言う人物、自他共に認める変な奴である。
 別に、性格が暗いとかそういうのではないが、何を考えてるかよくわからない……というのが本音だ。
 この一年間、修がこの部屋以外の場所に居るところを俺はあまり見た記憶が無い。
 修曰く、この部屋にいると落着くそうだが……
 確かに、精密機械が整然と並んでいるのを見れば落着いているのだが、如何せんうるさいのはこのファンの音だ。
 普通の人では、まず居眠りをすることすら出来ないだろう。
 ……が、以前ここで熟睡している修を見かけたことがあった。
 幾ら疲れていたからと言っても、このファンの音ではなかなか寝付けないはずなのに……
 それでも、修はいびきをたてて寝ていた。
 神経が図太いのか、馴れの問題なのか……謎である。
「ところで、秋野。何か用があってここに来たんじゃないか?」
「あっ、それなんだけど、この部屋の2階……って言うか、3階の仮眠室を使わせて欲しいんだけど……」
 この部屋には、仮眠用の部屋が別に用意されているのだ。
 システムシグマに、何かあった場合は大変なことになるので、その復旧作業等を先生方と学生達で徹夜で行う場合に備えた物だ。
 ただ、幸いにしてか未だそんな重大なことは起きてはおらず、仮眠室はこの部屋に入ることが許可された学生などの昼寝室となっている。
 と言っても、この仮眠室を使うには、シグマの管理者の許可も要る。
 つまり、修に却下されたら寝ることは許されないのだ。
 ……先生方も、何もこんなのにそんな権限与えなくてもいいような気がするが……
 仮眠室が存在するにも関わらず、S2Rで寝ている修も修だが……
「ああ、いいよ。どうせ、徹夜で研究していたんだろ? 寝ないと体が持たん」
 あっさりOKを出す修。
「どーした? 意外そうな顔して?」
 いつもとは違いあっさりOKした修を俺は不思議そうな顔でみていたらしい。
「いや……意外だなぁ……と思って……」
「何がだ?」
「あっさりOKしたこと……」
「そうか?」
 俺の台詞に気を留めた風はなく、またコンソールに向かう修。
 いつものだったら、「高いぞ」とか「1分1000円」とか言うはずなのに……
「何か良いことでもあったのか?」
 大真面目な顔をして聞く俺。
「別に……」
 修はそっけ無く言う。
「そう……それじゃ遠慮なく使わせてもらうよ」
 俺はいぶかしげな表情をしながらも、修の許可が出たということで、S2Rの上の階にある仮眠室にいくため壁際の階段に向かう。
「あっ、そうだ、一つ聞いておきたいんだけど……」
 階段の途中で俺は下でコンソールの前に座っている修に声をかけた。
「なんだ?」
「俺のシステムの動作状況を……」
 今このシグマの中で動いている俺が作成したプログラムが、正常に稼動しているか気になったのだ。
 修は手早くキーをたたくと、状況を読み上げる。
「システム名・システムセキュリティガードシステム、プログラム名・ラグナフィード……正常に動作中、現在は特に問題無し。ただ……」
 眉をひそめる修。
「ただ……どうしたの?」
「メモリ食いすぎだ、もう少しダイエットしろ」
「努力する……」
 どうやらシステムは、正常に動作中のようだ。今のところは問題なしか……
 ラグナフィード……
 俺が制作しているセキュリティガードシステムの名前である。
 外部や内部の不正なネットワーク侵入・破壊行動からシステムを自動的に守る機能がある。
 このシステムは、侵入してきたワームなどを攻撃・排除したり、また侵入経路を逆探知し、相手を見つけ出す機能を備えている。
 ……と言ってもまだ未完成なので、それらの機能を実現は出来ていない。
 これらの機能を実現するためには、人工知能を実装する必要がある。それも人間と同等の判断力を持った物ではなくてはならないのだ。
 これが川野辺が「目標が高すぎる」と言っていた所以なのだ。
 今の状況は、「武器は作ったが、それを使うものがいない」と言ったところか……
 これが、俺が編入生に興味を示していた理由である。
 とはいえ、それを当てにする気はあまり無い。
 その編入生も自分の研究があるだろうし……
 取りあえず、そんな事を考えるのは後にして、今はゆっくり寝よう……
「それじゃ、おやすみ……」
「ん、おやすみ……ゆっくり休め」
 S2R上の階に登り切った俺は、シグマを上から見下ろしている。
 眼下に広がる薄暗い空間、その中に灯るLEDの光、空調設備の音、そしてディスプレイの画面……
 これらのすべてが、このS2Rを包んでいる。まるで巨大な生き物のように……
 俺は仮眠室と書かれているドアを開け中に入った。
 ドアの横にあるスイッチを入れると、部屋の蛍光燈が点灯する。
 部屋には、5つベットが並べられている。
 但し、布団が無い。
 布団は、所定の置き場にまとめて置いてあり、自分で用意するのである。
「よいしょっと……」
 俺は、敷布団と掛け布団をとってきてベットの上に敷いた。
「では……寝るか……」
 俺は部屋の蛍光燈を消し、変わりに非常灯だけを点けて、ベットの中に潜り込んだ。
 そして、ベットに備え付けてあった目覚し時計をセットする。
 ……今は14時か……それじゃ17時にセットしておくか……
 それくらいには師匠の会議も終わっているかもしれない。
 3時間しかないが、それだけでも寝ただけマシだろう。
 ……寝れるだけ寝よう……
 そこで俺の意識は途切れた。

 ―桜― 了


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